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仏陀の教えから・・何が自分の「苦の源」なのかを知る方法 その1(2023年9/26)

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仏陀の教えの中で、後世に勘違いされた修行法とは?

仏陀が弟子で最も苦労したことは・・


【質問】

上記の2件の解説から、「苦の消滅を究極の目的とする仏教」において大切なことは、先ず「自分の苦しみの源が何であるか」を知ることだと学びました。

それでは、どうすれば自分の苦しみの源を知ることができるのでしょうか?




【答え】
自分の人生において苦しみを生み出している大元を「苦の原因または源」と言い、仏教用語では「渇愛(タンハー)」と言います。

渇愛(タンハー)は、その人から湧いてくる尽きることのない欲のようなものです。

その人の人生において、当たり前のようにいつもその人の行動を一定の方向にコントロールして、縛っているものです。



分かり易いを挙げると

どんな事に対しても直ぐに「怒り」が湧いてくる人がいるとします。

常にふつふつと怒りが湧いてきて、それを周囲の人にぶつけるので、人間関係が上手くいかなくなります

あちこちで対人関係のトラブルを抱えて家庭も仕事も上手くいかなくなって、人生に苦痛を作り出してしまいます


この人が初めにするべきことは、自分自身が常日頃、何かにつけて必要以上に怒りを撒き散らしていることに気が付くことです。


それでは、どうすれば日ごろの自分の状態が認識できるようになるのでしょうか?




①自分の渇愛(タンハー)を認識するためには先ず、自分の周囲の人に注目することです


一番初めに取り組むべきことは、自分の周囲の人に注目することです。


周囲の人そのものよりも、周囲の人を見たり接触する時に自分がどんな感情を持っているかをよく観察することです。


つまり、周囲の人との接触の刺激によって湧いてくる、自分の苦痛(負の感情)の源こそが渇愛(タンハー)だということになるのです。



しかしこの「観察」は、自分に対して冷静かつ客観的な立場を取らなければならないという、高度な境地が要求されます。

この境地は、一般人にとっては難しいので、この状態になれない人の為に仏陀が用意したのが次の「何もしない修行」です。



②自分を客観的に観察できない人の修行法は「何もしない修行」です


仏陀の時代には、動物的な感情を持つ人が結構いたということを話しましたが、こういう人は実は、じっと静かに何もしないことが大変苦手です。


何事にも手を出さず、物事をあれこれ考えないようにする修行」は、彼らにとっては日ごろの自分から離れる修行になるのです。


動物的な感情を持つ人は、何もしないことが苦痛で、常に何かをせずにはいられなくなります

いつものように何かを考えること、行動することをしたくなるはずです。

その時に、自分が「どんなことをどんな感情で行いたくなる」のかに注目するのです。



そこに焦点を当てると、自分の日ごろの言動の傾向が読めてきます。

その言動の動機になるエネルギー源が渇愛(タンハー)なのです。





「何もしない修行」も心が平穏でなかったり、観察することの概念そのものが分からない人にとっては、困難な修行でした。

そういう人の為に仏陀が指導したのが、「今現在に集中する修行(観察瞑想)」だったのです。


「何もしない修行」が困難な人の修行が「今現在に集中する修行」で悟りの第一段階です


「観察する」という概念を教えるためにも、仏陀は以下の様に指導されたのです。


仏陀今自分がやっていることを口に出してみてごらん・・・(ゆっくり手を動かしながら)手があがる・・あがる・・さがる・・さがる・・・(ゆっくり足を動かしながら)足が上がる・・上がる・・下がる‥下がる・・・」



このようにして目の前の現実の観察に集中している間は「苦」の源泉までは認識できなくとも、「苦」から離れることが出来ます


一時的でも「苦の消滅」の目的を果たしていることになるのです。

だから仏陀はこの状態を「悟りの第一段階」としていたのです。



知恵者によると、この観察瞑想の状態が、今では仏教の究極の境地として誤って伝わってしまいました


つまり、何もしないで感情を鎮めて心穏やかに瞑想している状態が仏陀の境地だと誤解されて伝わったのです。


このことは、知恵者にとっては全くの想定外だったそうです。



実は、これらの①~③の修行は、次の第2段階の本格的な苦からの解脱を目指す修行のための準備でしかないのです。


仏陀の教えから・・何が自分の「苦」なのかを知る方法 (その2)「苦と向き合う」に続きます。

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