【質問】
仏陀の教えの中で、後世に勘違いされた修行法とは?(2023年9/16)
において、「目の前の現実に集中するための修行法」が出てきましたが、仏教の或る一派の中では「仏陀直説の尊い修行法」として今でも受け継がれているようです。
知恵者によるとこの修行法の解釈が、当初とは違っているということですが、当時も仏陀が同じような修行法を実際に指導されていたのですか?
【答え】
仏陀は弟子たちの教育に腐心していた
当時、仏陀が弟子たちに、「目の前の現実に集中するための修行」つまり「自分自身の手足をゆっくり上げたり下げたりして、意識を集中させる修行」を指導していたのは事実です。
ただし、この修行法を正しく理解するためには、当時の仏弟子の教育レベルと理性の状態を良く知る必要があります。
仏陀の弟子には、もちろん身分も教養も高かった王族やバラモンがいますが、その他に平民で弟子になった者たちも大勢いたのです。
この時代には学校が無かったので、平民は文字の読み書きが出来ず、諸々の知識もありませんでした。
ゆえに一般平民は倫理観が無く、自分自身をコントロールすることを知らない人が多かったのです。
中には理性のきかない重犯罪者や、野生の獣のような者も弟子にいたのです。
そういう人たちに、哲学や論理学の様な仏法を教えるのは、並大抵ではありませんでした。
現代人が持っているような道理から考えて自制するような教育を殆ど受けてこなかった人たちには、仏法を教える以前に基本的な教育を施す必要がありました。
当時の仏教寺院とは、ものごとの道理を知らず、理性を持たない人々の教育施設であり矯正施設でもあったのです。
現実に集中する修業とは、一種の教育法だったのです
自分の手足をゆっくり上げたり下げたりする修行は、
❶今、自分が「どういうことをしているのか」を、ちゃんと理解する
❷今、自分が「どういうつもり(意識)で行動しているのか」を、ちゃんと理解する
❸今、自分が「体をどういう風に動かしているのか」を、ちゃんと意識する
等のように「現実に集中する修行法」とは実は、自分自身を客観的に理解して学び、野生の動物のような人を脱して、ちゃんと理性を持った人間になるための修行法であり、教育法だったのです。
この修行を積むことによって、仏陀の伝えたかった仏法を少しでも理解して実践できるようになることが、目的だったのです。
この修行を通して身に付けられることは、現代の学校の教育と変わらない
この修行法の究極の目的は、以下の3つのことになります。
⑴自分の体を意識的にコントロールすること
⑵自分が何をやっているのかを意識することで「観察する」という概念を理解すること
⑶上下左右の概念を正しく理解すること
こういったことは、現代では全て学校教育で身に付けられることです。
つまり、仏陀は当時、仏法を正しく伝えるための弟子の教育も、一手に引き受けていたことになります。
その教育法が、仏陀の瞑想法として現代にまで残っているのです。
この修行法は、仏陀の苦労が偲ばれる瞑想法ではありますが、現代人にとっては余り必要のないものになっています。
そのことを現代人は理解する必要があるのです。
必要な仏法のエッセンスを取りこぼして、必要のない瞑想法に耽溺することの無いようにしたいものです。
現代人は都合の悪い自分の「欲望」を隠す
当時の一般人は、現代からすると確かに動物に近い人間だったと言えます。
ゆえに自分の欲望を制御しない分、タンハー(渇愛)が手に取るように簡単に見えるタイプの人が多かったのです。
一方、現代の理性ある人々は、自分の欲や都合の悪い願望を分からないように隠す傾向があります。
それによって他人から隠すだけでなく、自分でも自身の欲の傾向が、認識しにくくなっているのです。
その状態で、仏陀のように心を穏やかにして静かに瞑想に耽っていると、まるで自分が悟った状態にいると勘違いすることになるのです。
様子だけ仏陀のマネをして、心の平静を保っていると誤解しているのです。
しかし心の奥底には隠された渇愛(タンハー)が渦巻いているのです。
仏教において最も大切なことは、自分自身の渇愛(タンハー)を認識することです
仏陀は苦から解放される方法を解明して「仏教」として後世に残しました。
その方法の中で最も大切な鍵が「自分自身の渇愛(タンハー)を認識すること」なのです。
結局そのことを忘れては、仏教ではなくなるといえるのです。
*参考
キリスト教においても同じことが言えます。
いくら神の愛が溢れる振りだけしても、真の愛が心にないならば、神の愛から逸脱することに成るでしょう。*