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仏陀の教えから・その2「苦」と向き合う(渇愛・タンハーを滅する修行)(2023年10/1)

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仏陀の教えから・・何が自分の「苦の源」なのかを知る方法 その1

の解説から仏陀が当時どのように弟子を指導していたのかが分かりました。

自分自身の「苦」の源となっている渇愛(タンハー)を知るための第一段階として


仏陀は初めに「自分の状態を客観的に観察する」という修行「観察瞑想」を与えました


その修行とは、以下①②③の通りでした。

①周囲の人に注目し、彼らに対していつも湧きおこる「自分の感情と行動の癖」を知ること(日常の中で修行できる人の場合)

この観察の修行が難しい人に対しては、以下②の修行法を指導しました。

②「何もしない修行」・・できるだけ何も考えず、何も行わない修行で、それでも自分の心に湧いてくる「考えたいこと」「行いたいこと」の傾向を知ること

この修行が困難な人に対しては、以下の③の修行法を指導しました。

③「今現在に集中する」ことで「観察する」という概念を理解しつつ、更に「苦しみ」から一時的に離れる修行

ゆっくり手足を上げたり下げたりしながら口に出して「手が・・あがる・あがる・・下がる・下がる・・・足が・・あがる・あがる・・さがる・さがる・・」等と言いながら「目の前の現実の観察に集中する修行」です。


この修行法(観察瞑想)では、意識を目の前の現実に集中するので、一時的に「苦」から離れることが出来ます。

「苦」から離れることで、一時的にせよ「苦」を客観的に捉えて取り組むことが可能になります。

この「苦」に取り組む準備ができた段階を、仏陀は「悟りの第一段階」とおっしゃったのです。


以上①②③の観察瞑想によって準備が出来ると、次の第二段階の本格的な修行に入れるのです。



第二段階の修行 渇愛(タンハー)を知るためには自分の「苦」に焦点を当てるしかない


渇愛(タンハー)とは、単なる「我欲」とは、一線を画すもので、海に浮かぶ氷山の海面下の見えない部分のように、本人の表層意識から隠されているものです。


しかし本人の感情や行動は、全てその大元である渇愛(タンハー)から湧いて来るのです。

そして渇愛(タンハー)は、その「歪んだ究極の目的」のために本人の無意識下「感情と行動」を操って目的を達成しようとするのです。



そのことを認識できていない本人は、自分の感情や行動に尤もらしい「理由」をつけて正当化します。



この、本人も理解できない「複雑な渇愛(タンハー)の概念」を理解するのは、仏陀の様な指導者がいない限り、普通は無理なのです。



ゆえに渇愛(タンハー)を理解するためには、そこから生み出された結果である「苦」に焦点を当てるしかありません。


その結果である「苦」をコントロールすることで、大元である渇愛(タンハー)そのものを滅するという方法を取るしかないのです。


それにしてもなぜ、人はわざわざ「苦」生じさせるのでしょうか?


物事の道理が分かっていないので「苦」が生じるのです


もし、物事の道理が分かっていれば、自分の行動がどんな事態を引き起こして「苦」が生じるかが手に取るように分かるので、その時点で行動を慎むものなのです。

ゆえに、自分自身に「苦」を引き寄せてしまうというのは、道理が分かっていないことになります。



以下に例を挙げてみます。

【怒りの渇愛(タンハー)を持っている人の例】

絶えず怒りを周囲の人にぶつけることが常態になっている人物Aがいるとします。

このAは、怒ることで周囲の人との関係を悪化させて、絶えずトラブルを抱えてそのことで悩まされています。

つまりAは、自分の行動の癖から「苦」を抱えています


このAの渇愛(タンハー)が、一般によくある「人の上に立たなくては気が済まない」というものだとします。

そこから、「自分自身の存在感を高めたい」という欲が引き起こされるのです。

そうすると「怒りをぶつけて相手を虐げると、自分が上に立ったような気がして快楽を感じる」ようになり得るのです。

結果的に、快楽を求めて常に人に対して怒りをぶつけるようになるのです。


実は、こういうAタイプの人は、世間ではよくあるパターンなのです。


この一連の繋がりを自分自身で解明するのは大変難しいので、まずは、一番表層で観察可能な「人に対してすぐ怒る」ことに注目して、その怒りを抑えるように自己コントロールすることが修行となります。


これが仏陀が指導していた本格的な渇愛(タンハー)を滅する修行となります。



渇愛(タンハー)を滅する本格的な修行とは、自分の心と行動の悪癖を自制する修行です


③の観察瞑想で「苦」から一時的でも離れたことによって、丁度、ペインクリニックの麻酔をかけたように「苦」(病)を感じなくなります。

ゆえに「苦」(病)と向き合うことが出来るようになることを説明しました。


つまり、向き合うことで「苦」(病)を知ることが出来るようになります。

「苦」(病)を知れば、その治し方が分かるようになるのです。

治し方(対処の仕方)が分かれば、日々その方法(自己コントロール)に取り組むだけです。


根気よく、日々休まず、研究者や修行者のように常に取り組めば、頑固だった渇愛(タンハー)が少しずつ薄れて「苦」が減っていくのが実感として感じられるようになるでしょう。


仏陀は、「渇愛(タンハー)を真に理解できれば一瞬で滅することが出来る」と仰っています。

とは言っても、普通の人がこの修行に懸命取り組んでも、一生のうちに消滅できる渇愛(タンハー)は、2つから3つ位だそうです。


全く修行しない人の場合でも、人生の中で大変な苦労を強いられて追い込まれ、軌道修正せざるを得なくなり、結局強制的に生き方を変えさせられることで渇愛(タンハー)に取り組まさせられます。

この場合は、一生涯を通しても、一つの渇愛(タンハー)を滅することすら困難で、一般に2回から3回の生まれ変わりの人生を必要とするそうです。


これらのことから、人がどれだけ沢山の「苦」を抱え込んでいるのか、作り出しているのかが伺い知れます。


このように渇愛(タンハー)は一つだけではないので、新たに見つけ次第、根気よく苦を滅する修行を始めることになります。



この修行が進むと、何事が起きても心が乱されることが無くなり、「苦」を作り出す前に対処できるようになるのです。


仏陀の境地になれば、自分の周囲の人の「苦」も手に取るように分かるので、自分と他人の「苦」を共に滅することができます

仏陀は、自分のみならず他人の「苦」にも取り組んで、大勢の他人の「苦」も消滅させていきました。


仏教の究極の境地になれば、自他ともに「苦」を消滅させることが出来るようになるのです。


だからもし、瞑想修行によって自分の「苦」を消滅させることが出来たならば、次は在野に降りて、衆生の中で「苦」を消滅せざるを得なくなります。


修行によって視野の広がった覚者は、他者の「苦」を自分の「苦」と感じるので、そうせざるを得なくなるのです。



ゆえに、自分の「苦」だけを消滅させて満足している修行者がいるとすれば、それは修行を途中でストップして、「仏教というファンタジーに耽溺している」といえるのです。


参考【お釈迦様の教え】苦しみの原因を探る 「四諦」からわかること

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