仏陀から直接教えられた修行法と言われているものの中に、時代を経て勘違いされて伝えられたものがあります。
それは、「目の前の現実に集中する」修行法です。
その修行法は南方に伝わっているもので、日本には直接伝わりませんでしたが、今でも尊い仏陀の修行法として一部の人を引き付けています。
そして修行者たちは、仏陀の教えを忠実に守って修行していることに誇りを持っています。
しかし知恵者によると、残念ながら彼らは仏陀の教えを勘違いしているところがあるようです。
「何も考えずに今現在に集中する」とは?
誤って伝えられた修行法においては、
「頭の中で色々考える前に、何も考えずに目の前の現象や事実を直視しなさい」
と、指導します。
そうやって自分の手や足をジッと見つめながら、ゆっくり少しずつ上げたり下ろしたりして
「・・・・あがる・・・あがる・・・下がる・・・下がる・・・」
等と、目の前の現実以外のことに気を散らさない修行をするのです。
ところが、知恵者はこの修行法の解釈には間違いがあると仰います。
仏陀は、現在に集中するようには言いましたが、「何も考えずに」とは言っていません
ではどのように間違ってしまったのでしょうか?
仏陀の教えはそもそも
「過去にふけり過ぎると現在が停滞するので、過去にとらわれ過ぎないように気をつけなさい。」というものでした。
「過去を捨て去れ」という意味ではないのです。
ところが、この「過去にとらわれ過ぎてはいけない」という部分を拡大解釈して、
「過去を丸まますっかり捨てて、現在に集中することが最善」と誤って解釈してしまったのです。
悲劇的なことにこの解釈の通りにすると、「過去を捨てて現在に捉われてふける」ことになってしまうのです。
知恵者が仰るには、
それではまるで「トカゲのように過去を忘れて、目の前のことにジッとふけっているだけ」になってしまうのです。
修行というのは、全て最終的な目的である「何のためにやっているのか」によって結果が違って来るのですが、
この修行法の修行者の心の中を覗いてみると
「私は偉いのだ。過去を捨て去って現在に集中できるような特別な仏教的な能力を持っているから、私は偉いのだ。」
というような自己陶酔の境地にふけりたいと望んでいる、と言えるのです。
結局何にふけるかは本人の自由なのですが、この状態には実は大きな問題が有るのです。
一番の問題は、この修行法の能力が、社会にとって何の役にも立たないことです。
これらの修行法は、本人は気持ちよい次元に耽溺しているのですが、世の中には全く役立たないことが問題です。
これはまるで、火が吹けない大道芸人と何ら変わりがないことになります。
(注釈・・口にアルコールを含んで霧状に吹き出し、そこに火を点けて口から火を吹く大道芸人が存在します)
この場合の大道芸人が吹くのは、「火が吹けるというホラ」だということになります。
王様や僧侶だろうと、大道芸人だろうと、人生の価値は、立場や身分では決まらないのです。
何を為したかでその人の人生の価値は決まります。
ゆえに、何もしないでジッと現在にふけって、自分自身を社会に役立てない修行法は、社会にとっても当人にとっても大きな問題が有るのです。
尤も、その修行者たちが目標にしているのは、そもそも社会に役立つことなどではないのですが・・。