父親、母親、先生や上司、先輩など、私たちは様々な力のある人たちに教えを受け、影響され、突き動かされて生きています。
中には間違っていると感じたことでも、立場が弱ければ従わなければならないこともあります。
もしも強制的に悪事に加担させられたとしたら、罪に問われるべきは自分ではなく、それを強要した人だと言えるでしょう。
もちろん裁かれるべきは悪事を強要された自分ではなく、そのような悪事を企んだ人間です。
しかし、仏教では「裁くべき悪人を決める」「犯人探しをする」ということはあまりしません。
お釈迦様の時代では、物事の善悪を区別することがとても難しい時代だったためです。
当時は、たとえ同じ「殺人」を犯しても、それを行った人間が「権力者」バラモンであれば罪に問われることはありませんでした。
しかし、「最下層民」スードラがバラモンに唾を吐いただけで、殺されても文句は言えない、そんな時代でした。
当時のインドでは、「人を殺すことは悪いこと」「盗みを働くことは悪いこと」「人を暴力で傷つけることは悪いこと」という、現代で我々が当たり前のように持っている「道徳」が存在していなかったのです。
そのため、当時の混乱した世の中では、国をより良くするためには、どんな法を作るべきか。
どのような行いが、みんなをよりよい状態に導くことができるか?
自分たちの智惠を絞って、必死に考えることが大切だったのです。
仏教では、このように「自分をより良くするためには、どのように行動するべきか」「目の前の問題を解決するためには、どうすれば良いか」を、知ることを特に重視します。
知るために唯一必要なことは、「観察」することです。
これは、ニュートンがりんごが木から落ちる様を見ることからヒントを得て、「万有引力」を発見したのと同じように、「目の前の現象を観察する」ことが大切なのです。
外を歩いていれば空の雲は勝手に流れます。何も言わなくても太陽は勝手に昇り、そして沈んでいきます。
目の前にあなたの親や上司、先輩がいます。もしくは、悪意を持って自分に近づいてくる人がいます。
瞑想の境地においては、雲や太陽のみならず、彼らもみな全て、「ただの現象」でしかありません。
この世の一切のあらゆるものは、自動的に、勝手に動いているただの「現象」なのです。
このように雲や太陽のみならず、人という存在もまた、ただの化学反応、物理現象、原子の塊でしかありません。
人の形をしているように見える「人間という原子の塊」の化学反応が勝手に進んだ結果、彼らは勝手に悪事を働いているのです。
もしもあらゆる悪事を働く人が、ただの「化学反応」だとしたならば、そこに悪事を働いたために責められるべき人、罰せられるべき人は存在するでしょうか?
太陽が昇り、陽が沈んだことに対して、罰せられるべき人、責任を取るべき人はいるでしょうか?
それらが、たとえ様々な悪事だったとしても同じことなのです。
世の中で起きる事件や現象、悪事の一切が、ただの化学反応であることを知ることができれば、それらの現象が起こったことに対して責任を取るべき人などどこにもいないということがわかるでしょう。
これは当然、人間社会では通用しない考え方であり、法として適用するべきでない考え方であることは、付け加えておきます。
人間社会で悪を働いた者は当然罰せられますし、罪を裁かれるべきものです。
しかし、罪を裁かれる者、裁く者、彼らも全て、ただの化学反応にすぎないと考えられたなら、そこに「罰せられるべき人」は本当に存在するでしょうか?
罰せられるべき人が存在しないならば、責任を取らされるべき人や、責任を追及する権利を持つ人もまた存在しません。
他人の行動を責める権利はありませんし、逆に自分の行動や考え方にも責められる責務がないことがわかるでしょう。
自分をより良くするためには、ただ目の前の現象を観察し、より良くするための行動を起こす。それだけなのです。
もしも誰かに不幸が降りかかったとしても、責められるべき人も、責任を取らされるべき人も、本質的には存在しないのです。
それらは、ただの「現象」に過ぎないのです。
ですから、自分に降りかかる不幸を「誰かのせい」に仕立て上げ、自分が考えないための言い訳を作る、行動しない理由を作る、というのは、実は仏教では愚かな行為の一つとして数えられます。
もしも降りかかる不幸を誰かのせいにしたとしたら、その行動は、果たして本当に、自分や友人を「より良くするための行動」でしょうか?
一度、じっくり考えてみる必要があるでしょう。
仏教において大切なのは、裁かれるべき人や責任を取らされる人を探すことではなく、それらの現象の出所や起承転結がどのようにして起こっているかを理解することなのです。