【質問】
古くより魔界や魔物の話が語られてきました。
地獄ならイメージが湧きますが、魔界や魔物は良く分かりません。
魔界や魔物とは一体何でしょうか?
実際に見えたり感じたりする人はいますか?
地獄とどう違いますか?
【答え】
魔界や魔物は、宗教(キリスト教、イスラム教、ユダヤ教その他)と関係があります。
これらの宗教の信徒にとっては、古くは外国こそが魔界でした。
外国とは、異教徒のいるところだからです。
異教徒は彼らにとっては討伐対象であり、魔界にいる魔物でした。
また、彼らの宗教から破門されたような、神から見捨てられた人がいる世界も魔界でした。
つまり魔界とは「理解できない異質なもの」で「邪悪なもの」であり「恐怖の対象」だったのです。
理解できない魔界ですが、理解できてしまえばそれは魔界ではなくなります。
また、地獄と魔界は全く別のものです。
地獄は悪人を罰するための世界です。
【質問】
霊的な魔界というのは存在しますか?
【答え】
霊界は、見ている人の霊的資質によって見え方がガラリと変わる世界です。
ゆえに魔界が見える人にとっては、確かに霊的な魔界は存在します。
一般には、宗教の心清らかな敬虔な信者ほど、魔界から遠いように感じられますが、実態は正反対です。
宗教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教その他)の敬虔な信徒ほど魔界が見え易くなります
なぜ、宗教の敬虔な信徒ほど、魔界を見やすくなるのか・・それは・・・
敬虔な信徒ほど、宗教の枠から外れた者が全て魔界や魔物に見えるようになるからです。
これは、サーモグラフで世界を見るのによく似ています。
明るいところを見やすくすると、それ以外は真っ暗に見えます。
同じように、自分が望む宗教上の光(神と聖書)だけを一点集中で追い求めるような視野を持っていると、光以外が全て魔界に見えるようになります。
言い替えれば、自分が信じている宗教から外れている人を、強烈に罰する心情が無ければ自分の心の中に魔界を見ることは出来ないのです。
日本人はどうでしょうか?
日本人は、八百万(やおよろず)の神も仏(如来や観音等)もすべからく信仰するため、信仰の有無によって罰するような感情が非常に薄いと言えます。
ゆえに日本人で魔界を見る人はごく少数です。
日本人のように光ばかりを見てはいない人にとっては、理解できない世界は揺らいで見えるだけで、すこしも恐ろしく感じられません。
つまり日本人は魔界が見え難いのです。
魔界とは、本人の何を表しているのか?
魔界を見る人は、自分の心で創造した世界を見ています。
つまり、心の中に魔界を創造できるだけの器が有るということです。
彼らにとっての魔界とは、信仰の光から自分を遠ざけさせるような、悪魔がうろついている世界なのです。
もし単に神の光を見るだけで魔界が見えるとすれば、それは本人の心が、求めている光に相応しくないことを表しています。
なぜなら実は魔界というのは本人の「他罰的、加虐的なカルマから湧いてくるもの」だからなのです。
もし、このことを本人が理解すれば、魔界は消えてなくなるでしょう。
なぜなら、理解できると他力本願ではなくなるからです。
どんな宗教の教えを学ぶかによって魔界を創造するレベルも決まります。
日本国内で布教されている少数派の宗教の中にも「某」というかなり魔界を見やすい危ないものが存在します。
魔界を見る者も魔界に堕ちた者も、共に光から裁かれることになります
なぜならば、魔界を見ている者も、魔界に堕ちた者も、両者とも魔に平伏し、畏怖し、恐怖します。
つまり畏怖心や恐怖心によって行動が縛られてしまうのです。
従って両者とも魔から裁かれ(縛られ)続けることになります。
(注:仏教徒は、魔界には存在せず、別の世界にいます。)
知恵者から魔界を見る人はどうみえるのか
魔界を見てしまうのは、ハンバーグは好きだけどニンジンは嫌いというような、子どもの好き嫌いと非常によく似ています。
この場合の美味しいハンバーグは光であって、不味いにんじんは闇です。
人生には、酸いも甘いも苦いもあります。
魔界を見る人は、好きな味しか味わいたくないのです。
それ以外の味には責任を取りたくないのです。
魔界を見る人は、好き嫌いの激しい子どものように霊的に未熟に見えます。