仏教の「戒律」は、自分が守るだけではなく、他者にも守らせることが重要です。
自分さえ守っていれば良いという訳ではありません。
自分が守り、他人にも守らせることによって初めて安寧が得られるのです。
地球がグローバル化すると、法律の抜け穴を利用して、法を守らない者が大勢出て来ます。
でも「戒律」は法律と違い、抜け穴が全くありません。
戒律の禁止事項は絶対にダメであり、許される条件などは存在しないのです。
仏陀生存当時の修行者たちの戒律は、破ると破門になり、修行場から追い出されました。
つまり他の修行者が関わってはいけない人間になり果てるのです。
現代の日本人は、自分さえちゃんと戒律や法律を守っていれば、それで良いと誤解している節があります。
ところが、自分だけでなく、他人や他国にも守らせなければならないのです。
むやみに自分の戒律を押し付けるのは間違いですが、自分の関われる部分で守らせるように努力することが必要となります。
例えば「人を殺すなかれ」という戒律があり、殺人をすると罰される法律もあります。
それでは、野盗に殺させて利益を得た場合はどうなるのでしょう?
戒律においては殺人ですが、法律においては見つからなければ無罪です。
戒律には抜け穴がありませんが、法律では証拠がなければ免れます。
同じ共同体の中で生活する関係であれば、お互いに戒律を守らなければ良い社会は作れないのです。
だから、自分が関係している部分でこの戒律、法律を破るものを見過ごしてはいけないのです。
ここから、人権弾圧をしている国家に投資をして、その国家の悪行を見て見ぬふりをするのは、自分自身も人権弾圧をして利益を得るのに等しいことが分かります。
自分の手の届く範囲における人権弾圧を見て見ぬふりをすると、将来何らかの形で責任を取らされる羽目になるのです。
それがこの場合の負のカルマです。
他国の人権弾圧を見過ごすと、やがて大きくなった他国が自国に対しても必ず人権弾圧をするようになります。
人権弾圧の他国とは、元々そういう弾圧国家であり、古来から人権弾圧を普通の事として繰り返し行っているのです。
そのような国家が日本にだけ人権弾圧を行わない理由がありません。
人権弾圧国家ではなかった日本が、人権弾圧を見て見ぬふりをして利益を享受すると、その人権弾圧のカルマに取り込まれて、終いには抜け出せなくなります。
つまり、日本も人権弾圧国家になり果てるということです。
この場合二重のカルマに取り込まれることになります。
つまり、人権弾圧をする国家に加担してみて見ぬふりをすると、人権弾圧をしたというカルマと人権弾圧によって利益を得るカルマの二重のカルマに取り込まれるのです。
そしてこの一連のことから、人権弾圧をすることで楽して利益を得ることを覚えて、味をしめると、それが止められなくなり、他の方法で稼ぐことが出来なくなります。
つまり、強烈なカルマの完成で、恐ろしいことに子孫にまで伝播します。
もし国家間双方の将来のために投資し、利益も得ていたならば、何時でもやり方を変更することが出来るのですが…。
その場合は正当な利益であり、ウィンウィンの関係だからです。
ところが、自己利益のために他人を蔑ろにしていると、その不当な濡れ手に粟の大きな利益から離れられなくなるのです。
だから自国はもちろんの事、他国にも人権弾圧をさせてはならないのです。
そのやり方に反対、否定するか、少なくとも加担してはいけないのです。
加担すると日本も当事者になり、人権弾圧を行っている国と同じカルマを積んでしまい、その轍から抜け出せなくなり、子々孫々まで巻き込んでいくことになり果てます。