当時の仏弟子たちは、修行中ゆえにみんな働き者でした。
しかし、後世に伝わった仏教の修行僧のイメージでは、ひたすら瞑想に明け暮れて怠惰に過ごしているように見えます。
しかもこの瞑想が修行の実を伴っていないので大変問題です。
つまり仏教が、時を経てヒンズー教化してしまったといえます。
本来の仏教の瞑想とは、自分の「知力」や「思考力」を向上させるために行うものですが、
現在の仏教の瞑想は、ただぼうっとして安逸を貪っているだけです。
当時の仏教僧は、瞑想の合間に様々な行(仕事)を行っていました。
つまり、生活のためにも働いていました。
世俗に交わりながら修行していたのです。
世俗にも交わらず、行もせずただひたすら瞑想に明け暮れる・・・
これでは、瞑想の真意を全く理解できていないと言えます。
人にもよりますが、なぜ現代の僧侶が瞑想で安逸を貪るようになったのか・・・
元々仏教とは、「苦」を無くすために修行する教えです。
そして「苦」が無くなると「楽」になります。
そこで一足飛びに修行の「苦」から逃げて「楽」を求めるようになった修行僧がいたのです。
「苦」と向き合うことを止めてしまったと言えます。
「苦」と向き合うためには、知恵と根気が必要だということです。
瞑想というものは自分の心の動きを徹底的に解剖して知るためにあるのです。
日夜研究に明け暮れて没頭している研究者のように熱心に取り組まなければなりません。
現代の僧侶は安楽な地位となっており、もし本当に仏教の修行をして苦と向き合って楽になりたいと思うならば、僧侶の地位を捨てなければなりません。
修行というのは、生半可なことではできないのです。
仏教でも結果が全てで悟ったものが人を幸せにできるのです。
仏教では自他ともに幸せになるべきもので、自分だけの幸福を目指しても決して叶えられないのです。
仏教とは法則であり、法則ならば万人に共通であって、一人だけが幸福になるなどありえないのです。
ところが、現代では仏教に教えを乞うものは、自分だけが幸せになりたい者ばかりです。
これこそが、仏教の正しい教えが残らなかった理由なのです。
人々が仏教を求める動機にこそ、問題があるのです。