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執着するということ 仏陀の教え

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お酒がどうしても辞められない。

別れた恋人の事がどうしても忘れられない。

気にしても仕方がないのに心配事が頭から離れない。

捨てられない。どうしても気になる。必要がないのに拘ってしまう。

これを仏教では「執着」と言います。

執着は「苦」を生み出し、叶えられない「欲」は際限なく苦痛を作り続けてしまいます。

「欲しい」という想いがあり、それが叶えられなければ、永遠に苦痛が生み出され続けるのです。

この「執着」とは何なのでしょう?それは即ち、特定の「物事に囚われること」です。

食物を食べる。睡眠をとる。食欲、睡眠欲。

これらは、我々が生きるためには必要なことです。

食べることをやめても、寝ることをやめてしまっても、我々は健康に生きていくことができません。

身体を維持し、健康を保つために、我々は「食欲」を感じます。

身体の栄養が足りなくなってくれば、「おなかが空いた」と感じます。

そこで適量の食べ物を摂取し、身体に栄養を行きわたらせることで我々は健康に生きることができます。

しかし、この「おなかが空いた」、「なにか食べたい」という「」が、必要もないのに際限なく湧き上がってきたらどうなるでしょう?

身体が欲する以上の栄養を過剰に摂り続ければ身体はどんどん肥え太り、血液はどろどろになり、やがて血管が詰まって死んでしまうかもしれません。

世の中どうしても食べ過ぎてしまう人がいます。

身体がブクブクと肥え太り、健康に悪いと分かっていても、食べることを止めることができません。「食べたい」という欲を抑えられない。欲を捨てられないのです。

この「捨てられない」という感情が「執着」です。

自分に不幸をもたらす、苦痛をもたらす行動だと分かっていても止められないのです。

もしもお腹が満腹になれば、健康な人であれば「もうお腹いっぱい」、「これ以上は食べられない」と感じます。しかし、もしもお腹がいっぱいになっても、「まだ足りない、もっと食べたい」という感情が捨てられなければどうなるでしょう?

その人は、目の前に食べ物がある限り、際限なく食べ続けるでしょう。

執着とは止められない欲のことを言うのです。

そう、止められない。

執着とは止められないことなのです。

太っていることは目に見えます。健康に悪いことも体重を計ったり、血液の検査をすればわかるでしょう。

食べ過ぎは、目に見えますから、わかりやすいのです。

しかし、世の中は目に見えて分かりやすい執着だけが存在しているわけではありません。

例えば、「仕事が止められない。」「怒ることが止められない。」「人を怖がることが止められない。」「楽をすることが止められない」・・・

このような感情も、捨てられなければまた執着になりうるのです。

執着の形は人それぞれ

執着の形は人によって違います。

「これさえ守っていれば執着にはならない!」というような分かりやすい教科書はありません。

教本は参考にはなりますが、それが常に執着を解くための正しい教えとは限らないのです。

もしも、目の前にある食べ物を食べることで健康を壊し、周囲の人に迷惑をかけ、自分が望んでいない不幸な結果を招くならば、食べることに執着しています。

しかし、食べ物を食べないことで健康を壊し、周囲の人に迷惑をかけ、自分が望んでいない不幸な結果を招くならば、食べないことが執着となるのです。

食べることに執着する人もあれば、食べないことに執着してしまう人もいるのです。

故に、禅定と言われる特定の境地に留まること。これは執着をもたらします。

執着を見極めるポイントは即ち、現実の物事を正しく理解し、そして望んだ結果が得られるかどうかです。

もしも現実を見誤り、間違った法則を信じ込み、それを愚直に実行しているとすれば、それこそが「執着」とよばれる状態なのです。

どんなに正しい教えに見えても、それが通用するためには必要となる前提や環境があります。

過去には正しかった法則が、世の中が変わると通用しなくなってしまった。

このような事はいくらでもあります。

前提がなくなってしまうと、どんなに正しく見える教えでも覆ってしまうものなのです。

故に仏陀はおっしゃいました。諸行無常と。

どんなに正しいように見える教えでも、それが正しく働く時、そして通用しない時があります。

教えには必ず、裏表があります。正しくない部分を含んでいるからこそ、正しく使う道具とすることができるのです。

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