悟りとは何でしょう?
悟った者に対する一般的なイメージは、大抵ずっと座禅を組んでいる、穏やかな心で何にも囚われることがない、自然の中で無為な心で過ごしている、というイメージではないでしょうか?
仏教で言うところの悟った者とは、カルマの轍(わだち)を乗り越えたもののことです。
カルマ(業)の因果、輪廻から発生する苦痛から脱却した者のことです。
苦痛を伴う悪い行為(姦淫、犯罪、飲酒など)を行わない者と言えますし、ずっと涅槃(苦痛のない世界)に行ったまま戻ってくる必要のない人、とも言えます。
輪廻の業から脱却した者は、生に(生に伴う苦痛を発する行い)執着することをしません。
ところで、「執着」とは何でしょうか?
犯罪に手を染めながら、他者に苦痛を与えて生きていく、これは立派な執着と言えるかもしれません。
悪いこと、悲惨な結果をもたらすと分かっているのに、止めることが出来ない。これも執着です。
生きるために食べること、異性を求めること。これも執着と言えるかもしれません。
以上のような執着はわかりやすい例ですが、中には一見すると執着とはわかりにくい執着も存在します。
例えば、高い地位にいて、その財や権力を貪る者は、自分の高い権力と財力に執着しています。そして、もし必要に迫られていても、それらを手放すことがどうしても出来ません。
しかし逆に、低い地位に執着する者もいます。
社会的保証を得続けるために、自分の現在の状態から脱却できない人や、ブラック企業で明日倒れるかもわからない状態にもかかわらず、恐怖が先立つために辞められない人も、執着していると言えるのかもしれません。
同じように、自分の頭脳を鼻にかけ、他者を貶める心根を捨てられない人もいます。
金銭を貪るものがいれば、貧者であることを貪る者、賢者であることを貪る人もいるのです。
真の悟った者は、これらに執着することをしません。
自分の地位が貶められても動じることがなければ、逆に偉人や組織のリーダーとなっても、その地位に胡坐をかくこともなければ、必要以上に謙遜することもしません。
覚者は、特定の状態に執着しない存在なのです。
生きることに執着しなければ、死ぬ事にも執着しないのです。
自分は何者であるか。自分はこのような人間である、と定義することは、アイデンティティを生み出すこととも言えますが、自分を定義した瞬間から、我々はそこに縛られます。そこに執着が生まれるのです。
極論すれば、「 自分は悟ったものである 」という地位に執着することも、また執着と言えるのです。
我々が広い視野を捨て去り、自分の作り出した檻に居座る限り、この轍から抜け出すことは決してできないのです。