行き過ぎた民主主義の結果が現在の日本の状態(2021年9月)と言えます。
一般に民衆とは怠惰で認識の範囲が狭いものです。
民衆は、要望を国や政治家に対して突きつけますが、その要望が達成されることの負の面にはまるで頓着が無く、その結果には全く責任を持ちませんし、考えもしません。
それが現在における世間一般で言う民衆です。
現在の日本は、民主主義の民衆の要望を優先した結果、国家が衰退した実例です。
民衆とは自分たちが選択決定したことに対して責任を果たすことを知りません。
何か不都合が起こると、必ず誰かのせいにします。
その誰かとは、政治家であったり、官僚や企業家であったり、外国勢力やメディアなどです。
もちろん彼らにも大いに責任がありますが、実は民衆側にも同じくらいの責任があるのです。
例えば、大金を手にした民衆がその大金を有意義に使えるかどうかで民衆のレベルが分かります。
民衆とは言っても、個々人の選択の結果が全体の流れになるので、個人の選択と決定が実は大きな影響を与えます。
その一般人は、余った財源を将来のための投資に使えたでしょうか?
未来を担う子どもの教育向上のために使えたでしょうか?
技術や研究開発に役立てることが出来たでしょうか?
一人ずつの決定によって世の流れが集約されます。
その顕著な見本がバブル時代の日本です。
その頃の日本には、世界の牽引役として先進諸国の期待を一身に背負っていたので、外国からの投資によって身に余るほどの多額な資金が集まっていました。
ところがその資金が、無駄な浪費によって海外に流れてしまいました。
一杯2万円のコーヒーや10万円の下着・・・・
株式の暴騰・・・・
ブランド物を買い漁り、海外旅行にうつつを抜かし、土地が10倍以上に跳ね上がったバブル時代・・・・
折角の資金を有意義に使えなければ、無駄にした分、国力が衰えるのです。
有効に使えないお金は、実は分不相応の余剰金だったということです。
分不相応の余剰金とは、何れにしても手元から消えてなくなってしまうものです。
そんなお金はカルマ的に有意義なことには使えないのです。
もし心ある政治家が、余剰金を将来のために役立つことに活用していれば、その後が変わったかもしれませんが、日本においては所詮無理なことでした。
民衆は使いたいようにお金を使うのです。
これは、民主主義の名のもとに民衆の要望を優先しすぎるとどうなるかの見本です。
本来ならば余った財源を適切に使うことを指南する政治家が必要なのですが、それまで民衆はそんな理念を持つ政治家にはあまり興味がなく、選挙でふるい落とされた可能性があります。
そういう高邁な政治家は、民衆の過度な要望には応えられないので、選挙で民衆に対してなかなかアピールできにくく、有名になれないのです。
だからそういう政治家を民衆は選挙では選ばないのです。
これは、「民衆」というものの「カルマ(因果応報)」とも言えます。
欲望が過度になり過ぎ、それが叶えられた結果、国家が衰退して結局民衆の要望が犠牲になる悪循環です。
更に平和を満喫している日本人には、お花畑でぬるま湯が好きな傾向があります。
ことを荒立てる政治家よりも、和を尊ぶ円満な政治家の人間性を好む傾向が強いので、よりカルマの度合いが高くなります。
大金を持つとは、世の中から大金を預かっているということです。
だからその使い方に関しては、世の中に対して責任があるのです。
責任ある使い方が出来ない人は、カルマ的に自然と貧困になっていくのです。
※今後、時代の流れとともに日本の若者が意識に目覚めて、刹那的な我欲を満たすことに走らずに、将来のために本当に必要なことや大切なことを見通す目が養われた時に、日本は劇的に変わるでしょう。