日本は昔から同調圧力が強く、他人が自分と違うことを許さない、と言われています。
全員横並びが良く、そこからはみ出す者は悪だと決めてしまうような気風があります。
しかし、実際には西洋諸国や諸外国にも、ある意味で同調圧力は存在します。
西洋においては、それらはすべて「契約」という概念に集約されています。
古来より培われている様々な宗教や教義による「契約」、現代では会社や組織、個人間における売買や約束などの「契約」です。
宗教に属する者は宗教の契約を守ることを求められますし、社会に属しているならば、社会の一員として守らなければならないルールを契約によって遵守しています。
契約を破った者には、相応の社会的制裁が下されます。
日本における同調圧力には、この契約という概念は存在しません。
厳密にしてはならない事、などのルールが定められているわけではありません。
暗黙の了解がたとえ破られたとしても、それが周囲の反感を買ったり、悪行と見なされなければ許されてしまいます。
同調圧力とは、教義などのルールとは異なるものなのです。
破ってはならないルールは存在しませんし、その反面、許されている行動も存在しません。
それらはルールという観点から見れば、極めて曖昧なものに感じられます。
同調圧力の正体、それはすなわち、「楽であろうとすること」と言えます。
何が楽で、何が苦なのでしょうか?それは人によって違いますが、その正体は「雰囲気」という単語で説明することができます。
賑やかな雰囲気が好きな人もいれば、静かな雰囲気が好きな人もいます。
楽しくしゃべること好きな人もいれば、ゆったりとリラックスすることが好きな人もいるでしょう。
これらはすべて言語化することが困難なため、「雰囲気」という言葉で表されています。
好ましい雰囲気というのは、人によってまったく異なるものでありますから、厳密に良い雰囲気や悪い雰囲気というものを定義することはできません。
そのため、「雰囲気に合わせる」という曖昧な表現になってしまいます。
「雰囲気に合わせる」という行動は、そこにいる人、特にそこにいる権力者、偉い人を楽にする行動です。
その場の雰囲気が人の行動を作りだし、雰囲気こそが人を支配しています。日本というのはそのような社会です。
日本人は、ルールや戒律よりも、雰囲気を優先して行動します。ですから、ブラックな職場や部活動が平然とまかり通ってしまうことがあります。
権力者がルールを大切にする人なら、ルールを守るという雰囲気を大切にしますし、その逆もまた同様になります。
分かりやすく言うならば、日本には西洋のようなルールや戒律が存在しない反面、権力を握る人自身ががルールになるのです。
西洋においては、権力を握る者が年功序列では決まりません。
権力を掌握することが得意な者が、組織のリーダーとなる気風があります。
そのため、強いリーダーシップと雰囲気作りはすべてリーダーに一任されているため、周囲の人々が雰囲気に気を遣う必要がありません。
日本では、リーダーに相応しくないにもかかわらず、雰囲気や年功によってリーダーに祭り上げられてしまう人が多い、と言えるかもしれません。
そのような人は、えてしてコミュニケーション力や指導力、雰囲気を作る力に秀でているわけではありません。
ですから、周囲の人が「雰囲気に合わせる」ことで、秩序やルールの肩代わりをすることが求められるのです。
厳密なルールで縛られない反面、周囲の人にもグループ全体の責任を求められる、日本は、西洋のトップダウン方式の組織体制と比べると、一風変わった社会を作っていると言えるでしょう。