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自ら支配される人間 ヒトのサガと権力の一極集中

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アメリカをはじめとして、昨今は日本でも貧富の格差拡大、富の一極集中が大きな問題となりつつあります。

特定の分野でこそが是正されているかのような印象を受けますが、実際には個々の経済の格差は開いていく一方です。

この経済の格差は権力の格差を生み出し、その権力の格差がまた貧富の差を拡大してしまいます。

昨今の社会においては、しつこいほど人権や自由、平等が叫ばれています。そしてそれを実現することこそが理想だと言われていますが、実際にはそれらが実現する気配はありません。

なぜ真の自由や平等は達成されないのでしょうか?それは人間の種としての性質である「業」に起因しているといえます。

そう、実際のところ、人間というのは「権力が大好き」な生き物なのです。

例えば、周囲と同じでなければならない、同じでなければ迫害される、同調圧力と呼ばれるものがあります。

クラスの皆が、ある一人をいじめている。そして、自分もそのいじめに加わならければ、自分までがいじめられる。

自分がいじめられることが怖いから、自分もそのいじめに加わる。加害者になる。

数多の人から称賛されている高学歴卒エリートの大学教授がいる。その学者が言っていることだから正しいに決まっている。

どこぞの誰か分からない、農学卒の一般人が、彼の研究に対して異を唱えている。どう見ても社会的な格が違う。教授のほうが絶対に正しいに決まっている。論ずる価値もない。このような不届き者は制裁されるべきだ。自分もこの動きを応援しよう。


この人は、なぜ何も考えずにこれらの強い者に従うことを決めたのでしょうか?
その動機は、けっして中立的に、客観的に、理論的に決定されたわけではありません。

実のところ、ただ「強そうだから」従っているにすぎないというのが本音でしょう。

怖いから、正しいから、など、各々の感じ方に違いはあるかもしれませんが、これらは「長い物には巻かれる」ことを意図した行動です。

強い者に盲目的に従うという姿勢。そこには行動や選択を考える自由は最早ありません。自分で選択できる自由を最初から完全に手放してしまっています。


この「強いものに従う」癖は、人間のサガと言えます。
そして、この人間の偏った「サガ」が、権力の一極集中や富の偏在をもたらすのです。

権力とは、「人を動かすことができる力」のことを指します。

強い者に従うという、これらの行動は「権力者をより強くする」ことになります。

もしも、あなたが権力者に従う選択をしたなら、その瞬間から、あなたはその権力者を支援する者であり、手足であり、権力のパワーそのものと言えます。

あなたは自分の自由と決定権を放棄し、それをすべて権力者に与えます。

これが数多の人によって繰り返された結果、ヒトは権力者をより強い権力者へと育ててしまい、その権力者自身にとって本来ふさわしい以上の、はるかに過剰に強い権力が与えられることになります。

いずれ、この権力は暴走を始めるでしょう。人を傷つけたり、大きな事故を起こしたり、社会に何らかの禍根を残すかもしれません。

暴走している権力者が悪いのは確かですが、自分も含めて、皆がその権力に従うことに同意しているからこそ、そのような勝手が許されているのです。権力に従っている人、同意している人は、実はみな「共犯者」です。

権力者とは本質的にはただの弱い一個人です。その権力者に力を与えているのは、他ならぬ同調する「周囲の人間」です。

なぜ、人は自由と決定権を放棄してしまうのでしょうか?

実のところ、「権力を放棄するほうが楽」なのです。自分で考え、決定することは怖い、不安を感じる。面倒くさい。だから、だれか強い人に決めてほしい。

しかし、たとえ強い者に従ったとしても、その者がそれにふさわしいだけの能力を持っているとは限りません。

権力というものは、本人にとってふさわしい以上の過剰な力が与えられがちなのですから。

ですから、ただ「安心感を得たいために」誰かの加護を受けたい、誰かに決めてほしい、という思いが湧いてくるなら、その感情には気を付けた方が良いのです。

命令してくれる人が正しい保証など、まして自分のことを本当に考えてくれている保証などありません。

自分で考え、その決定が本当に自分にとって正しいのか。その決定に自分は納得できるのか。そして、もしもそれが明らかに誤っているなら、それに従わない勇気を持つことも大切です。

権力者に過剰な権力が集中してしまう理由は、権力に従っている人々が、不安や恐怖、怠慢などにより、自分自身の自由、権利を「自分の意志で」手放していることによります。

集団で海に飛び込むネズミのように、みんなが賛成しているから正しいとは限りません。それに賛成するのも、反対するのも、自分自身の責任なのです。たとえ誰かにその責任を押し付けたように見えても、本質的にはその選択の責任から逃れることは誰もできないのです。

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