チャネリング 仏教と瞑想

命令する人生と、命令される人生は紙一重

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権力者は、常に下の者から認められ、下の者を従え、命令を下すことでその成果を受け取ることで生きています。

権力者は、常に他人に依存し続けなければ権力者として存在できません。他人に命令し、他人に頼って生きています。

しかし逆に、権力者に命令される立場の者も、他人に依存して生きています。

権力者の命令が無ければ、彼らは正しい判断し、正しい行動が出来なくなってしまいます。

権力者と命令される者、彼らの立場はまるで真逆ですが、他人の行動や成果に頼らなければならない、という点はまるで鏡合わせのように共通しています。

王様が家臣から見離されればその地位はあっという間に失われてしまいますし、逆に会社の社員が社長から見放されればクビを言い渡されることになります。

他人に依存しているという点で、双方ともまるで鏡合わせのように酷似した存在です。

それでは一体、彼らの何が「権力者」であることと、命令される「依存者」であることを分けているのでしょうか?

単に、彼らの立場の差がそれらを決定付けてしているのでしょうか?


実のところ、彼らの唯一つの違いは、「自分自身で責任を取るか取らないか」、という一点にあります。

権力者は、他人にいろいろな命令やお願いをしますが、その「命令した結果」や「お願いした事実」については、最終的に自分自身で責任を取らなければなりません。

反面、依存者は責任を取る必要がありません。もしも依存している相手が自分のために動いてくれない、与えてくれないときに、依存者はその責任を全て相手に丸投げできるのです。

どんなに不都合なことが起こったとしても、それらはたいてい、全て依存している相手の責任となります。

もしも他人にべったり寄りかかってしまう依存者を卒業し、自立した権力者となりたいならば、相手にお願いしたという自分の選択に対して、常に責任を持ち、自分がもたらした結果なのだと自覚することが大切です。

自覚こそが現実を引き寄せるための強力なツールとなるからです。

自分や他者の行動に責任を取れない人間は、権力者にはなれないのです。権力を無理に振るう必要がないならば、権力者の立場を過剰に求めることも、考えなければなりませんね。

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