人は死後、一般的に霊界においても人の姿をしています。
霊界は念の世界なので、自分自身の念が自分の姿を形作ります。
心根の清らかな人は、清らかな姿そのものになり、清廉な人が集まったところで生活することになります。
また、人を助けることを信条として慈悲心に溢れた人は、まるで観音様のような輝きを放つことになります。
こういうタイプの人は、自ら進んで困っている人を助けるために、霊界の困っている人が沢山集まったところに人助けに行くでしょう。
一方、人から物を奪うことを常日頃、習慣化していた人(奪うことがタンハー、渇愛になっている人)は、生きていた頃とは違って、その貪りの心根を他人に隠すことが出来なくなります。
そして如何にも貪欲な、近づくと必ず何かを強奪されそうな危ない雰囲気を周囲に発散するようになります。
もちろん本人は隠しているつもりですが、生前と違って見るからにバレバレになります。
こういうタイプの人は、お互いに常に物を奪い合うような、一般には地獄と認識されているようなところに行くことになるでしょう。
生前に他人を虐げ続けてきた人も当然、お互いに虐げ続ける、一般に地獄と呼ばれているところに行くでしょう。
ここまでの話は、霊界において人らしき姿をした霊人の色々な例です。
その霊人と一線を画するのが以下の人ととしての姿を維持できない人々の話です。
霊人の中には、人とは違う動物の姿が相応しい人がいます。
これらの人たちは、心情が人から乖離してしまっており、もはや人としての姿ではいられない人々です。
念のレベルで人以外の動物に非常に似通ってしまっているのです。
例えば人の寝首を掻く様なことばかりを繰り返した人は、死後にもその心癖が治せずに、霊界でカマキリのような姿に見えます。
つまり、人を襲って命を刈り取りたいタンハー(欲)を常に発揮しているのでそういう姿が似つかわしくなるのです。
同じ様に異常に怠惰で強欲な心癖の場合は、カエルの姿になります。
じっと怠惰に動かずに虫(獲物、利得)がやって来るのを待ち受けて、獲物が近づけば、大口を開けて一気にぱくりと飲み込んでしまいます。
この蛙の習性に倣っているとカエルと同じ心情になって、姿までがカエルになってしまいます。
他にも蛇、犬、猫等・・・・色々な動物に異常に似た想念を持つと、霊界においては動物の姿に成り変わってしまうことがあります。
でも物質界において実際に動物に生まれ変わるとなると、話は違います。
実際の動物と人との間には乗り越えられない精神の立ち位置の違いがあり、動物に生まれ変わることは滅多にありません。
仮に動物に生まれ変わるとすれば、せいぜい人の傍で生きている飼いならされたペットか家畜でしょう。
人は生まれ変わる時に、宇宙からの要請で、人としての何らかの役目を担います。
その役目を担えるからこそ人として生まれ変わることができるのです。
人が人に生まれ変わることが出来なくなるのは、人としての役目が果たせなくなった時です。
宇宙の要請に答えられなくなった時には、人に生まれ変わることが難しくなります。
その役目が果たせない人は殆どいませんので(例え悪人でも悪人としての役割があり、これは必要悪なのです)安心して日々のお勤めに邁進してください。
人が死後本格的な地獄に落ちる場合には、凶悪な犯罪を犯したからというよりも、「人間社会に強い執着を持ち続けていながら人としての道義から極端にはみ出していること」が原因になっている場合があります。
人としての道義から大幅にはみ出しているにもかかわらず、人であり続けたい・・という強い執着を持つと、地獄に落ちざるを得なくなるのです。
死後に人間社会に強い執着があると、人間社会から離れることが出来なくなります。
そしてそういう執着を持った凶悪犯罪者は、人間社会の道義から逸脱しているにもかかわらず、人間の道義に自分自身を押し込めてしまうので、皮肉なことに自分自身を罰せざるを得なくなって、地獄に行かざるを得なくなるのです。