「昔はよかった」「今は分からない」
世代が変われば価値観や考え方が大きく変化します。
これは、単なる世代間ギャップではなく、社会の構造や時代背景の変化そのものが、人の慣習や思考を形作った結果です。
本記事では、団塊の世代から現代の若者世代夫々がどんな環境で育ち、どんな”自由”を与えられて生きてきたのかを考察します。
団塊の世代の声①
「俺たちは、戦後の焼け野原から這い上がった世代だ。
人口が多く、競争は熾烈で、席を勝ち取るには必死にならざるを得なかった。
だが、高度成長という追い風があった。
努力しさえすれば必ず道が開けると、本気で信じられたんだ。
そして多少我を張っても、会社も仲間も地域もフォローしてくれたんだ。
常に組織や共同体の手厚い加護が俺たちを守ってくれたから、我がままを張るのも”選択の自由”として、許されていたんだよ。」
現代の若者の声①
「そうして団塊の世代によって築かれた社会の仕組みと、豊かさは、確かに大きな力を持っていました。
しかし、その仕組みと豊かさを、世代全体で消費し尽してしまったのも事実です。
そして、会社や地域コミュニティの力は弱まり、フォローは無くなりました。
今の社会では、”好き勝手やる”ことは、直ぐに孤立に直結します。
支えの無いただの自由とは、”砂漠に放り出される自由”に他なりません。
現代の若者は、身勝手の責任をただ背負わされ、助けてもらえる期待は全く持てないのです。
ゆえに、団塊の世代の『我を通す自由』と現代の『砂漠に放り出される自由』は、同じ”自由”という言葉でもまるで意味が違うんです。」
団塊の世代の声②
「俺たちの時代の自由は、たとえるなら食卓に並んだ豊富な料理を好き勝手に盛り付けられるバイキングみたいなものだった。
競争は厳しかったが、全体の皿の料理が減れば、また補充されると信じられた。
たとえ取り過ぎても、どこかで誰かが穴埋めをしてくれる余裕が社会にあったんだ。
だから”自分を変える努力”のようなことを深く考える必要もなく、好きにやっていれば何とかなった。」
現代の若者の声②
「けれども、今の世代にとっての自由は、全く違います。
食卓に並んでいる料理は、無くなってももう補充されない。
自分が遅れて入ってきた客なら、残り物で何とかするしかない。
好きなものを好きなだけ盛る自由はあるけれど、それは有限でもし失敗しても誰も助けてはくれない。
つまり”砂漠に放り出される自由”です。
選択肢はあるけれど、その選択には常に責任が伴い、間違えればすぐ孤立する。
自由であることがそのまま重荷になってしまうのです。」
団塊の世代の声③
「俺たちは、会社に行けば仲間がいて、飲み屋に行けば同僚や上司がいた。
家に帰れば家族が待っていた。
文句を言い合いながらも”席は会社でも家でも常に用意されてたんだ”
だから"孤独に放り出される"なんて感覚は、想像もしなかった。」
現代の若者の声③
「今の世代にはその”席”が最初から用意されていません。
仲間も家族も、関係を自分から作らないと始まらない。
逃げ場はなく、”自分を変える”努力を放棄すれば、ただ砂漠をさ迷うだけ。
だから現代の若者は、自己分析や内省に過剰なまでにこだわるし、時に『自己責任』という言葉に押しつぶされてしまう。
団塊の世代が当たり前に持っていた”席の保障”が、今は存在しないのです。」
まとめ:世代を超えて見えるもの
【団塊の世代】
組織や共同体と経済成長を背景に、”我を通す自由”を生き抜いてきた。
多少の強引さも社会が吸収してくれた。
【若者の親世代】
団塊の世代の残り火を利用しながらも、自分を根本的には変えることをせず、外部の制度や環境に寄りかかってやり過ごした。
【今の世代】
共同体が消えた砂漠で、”放り出される自由”を常に抱え込みながら、自らの選択に全責任を負わされている。
終わりに
世代ごとに背負った「環境の構造」が違うからこそ、価値観の衝突は避けられません。
大切なのは「どちらが正しい」ではなく、なぜそうなったのかを理解することです。
団塊の世代が享受した”我を通す自由”は、組織や共同体が厚く存在してこそ成り立ちました。
現代の世代が抱える”砂漠に放り出される自由”は、その仕組みが解体された後の残響です。
両者を比べると、同じ自由という言葉が如何に異なる意味を持っているかが分かります。
だからこそ、互いの歴史を翻訳し合い、立場の違いを認め合うことが、これから世代間の会話を成り立たせる第一歩になるのです。