AIに相談しない男
営業部の朝会で、若手の吉岡が新しい提案資料を出したときのことです。以前の吉岡は、話は飛ぶし、勢いだけで押し切ろうとするところがあって、正直そこまで評価の高い男ではありませんでした。ところがその日は違いました。資料はやけに見やすく、話の流れも綺麗にまとまっていて、先方の懸念点まで先回りして整理されていました。部長は感心したように頷き、隣の課長も珍しくすぐに乗り気になりました。
「吉岡、最近すごいな」
それだけの話です。別におかしなことはありません。若い社員が急に伸びることくらいあるでしょう。私もそう思っていました。
ただ、その日から少しずつ、会社の空気が変わり始めたのです。
数ヶ月後には、営業も総務も人事も、妙に似たような話し方をするようになっていました。結論が先に来て、リスクと対策が綺麗に二つ三つ並び、相手の感情を刺激しない安全な言葉で終わる。乱暴な言い方をすれば、誰が話しても同じように聞こえるのです。以前なら、もっと雑で、もっと癖があって、だからこそ顔が見えたはずの会議が、だんだん無機質なものになっていきました。
「最近、みんな優秀になりましたよね」
昼休みにそう言ったのは、人事の片山でした。悪気はなかったのでしょう。彼女は本気で会社が洗練されてきたと思っていたはずです。
私は曖昧に笑いましたが、内心では少し引っかかっていました。優秀になったというより、みな、同じ型で横並びに整えられているように見えたからです。言葉が丸くなり、結論が早くなり、しかし妙に奥行きがなくなっている。あの感じをうまく説明できませんでした。
そのうち、理由が分かりました。
社内で導入された新しいAI支援ツールです。正式名称は長くて覚えづらいものでしたが、みんなはただ「アシスト」と呼んでいました。議事録、提案書、面談記録、評価コメント、取引先へのメール文案、果ては自己PRまで整えてくれる便利なツールです。導入当初は、単なる時短の道具だと思われていました。私も、最初は会議メモを要約させる程度には使っていました。
しかし気が付いた時には、そこでは終わらなかったのです。
どう書けば評価されるか。どう話せば信頼されるか。どう振る舞えば将来性があるように見えるか。みんながアシストへ相談するようになりました。提案書を作るためではなく、自分自身の仕事の悩みを解決するために使い始めたのです。
最初に露骨に変わったのは人事でした。
四半期の評価面談で、課長の口から出てくる言葉が毎回どこか似ていました。「安定感がある」「協調性が高い」「変化への適応力がある」「視野が広い」「中長期の成長が期待できる」。便利な言葉です。角が立たない。誰も傷つけない。けれど、それを言われた人間が本当にどんな仕事をしたのかは、逆によく分からない。
一方で、評価を落とされる人間にも共通点がありました。「属人的」「再現性に不安」「周囲との連携に課題」「方向性にムラがある」。私はその評価一覧を見て、思わず苦笑いしそうになりました。そこに並んでいた名前は、昔なら現場で頼りにされていた人間たちだったからです。数字を作るが雑な男。お客と揉めることもあるが最後は信頼を取ってくる女。会議では無愛想だが、事故の匂いを真っ先に嗅ぎ分ける年配社員。そういう人間ほど、少しずつ脇へ寄せられていました。
逆に、よく上がる社員には妙な共通点がありました。仕事ができるのは確かです。そこに異論はありません。ただ、皆が皆、アシストの使い方がうまい。資料の出し方も、上司への報告の仕方も、失敗時のフォローの仕方すら瓜二つ。失点を失点として残さず、成長課題という形に変えるのです。昔なら、そういうのは単に世渡りがうまいと呼ばれたでしょう。しかし今は違いました。会社そのものがそれらを高く評価し始めていたのです。
それでもなお、私は深刻には考えていませんでした。時代が変わっただけ、自分が古いだけ、その程度のことだと思おうとしていました。
決定的だったのは、中途採用の面接に同席した日のことです。
応募者は三人いました。一人は、業界経験が長く、前職で大型案件をいくつも回してきた四十代の男でした。受け答えは少し不器用で、話も長い。しかし内容には芯がありました。二人目は、若くて柔らかく、質問への返答がとにかく綺麗でした。話すたびに結論、根拠、リスク、対策が短くまとまり、こちらが聞きたいことを先回りして出してきます。三人目は印象が薄く、正直勝負になりませんでした。
面接が終わった後、人事の片山が言いました。
「二人目、いいですよね。すごく将来性を感じます」
部長もすぐに頷きました。「話が早いし、今の組織に馴染みそうだな」
私は少し考えてから、一人目のほうが現場では強いのではないかと言いました。あの雑さの中に実務の重さがある、今のうちにはむしろ必要なのではないか、と。しかしその場の空気はもう決まっていました。片山は困ったように微笑み、部長は私に向かって穏やかな声でこう言いました。
「確かに経験はあります。ただ、少し旧いんですよね。今後の変化に適応できるかどうかが……」
その言葉を聞いた瞬間、私は背筋が凍りました。旧い、という言葉の意味が分かったからです。
あの男が古いのではありません。アシストを使っていない人間の態度仕草、考え方が、この会社では古く見られているのです。
その頃から、取引先の空気も似てきました。
新規開拓で訪ねた先の担当者は、初対面なのにやけに話が早く、こちらの資料のどこを見るかまで同じでした。先方の役員が何に頷き、何に難色を示し、どこで安心した顔になるかまで、まるで同じ型でできているように見えました。同行した若手は商談後にこう言いました。
「楽でしたね。やっぱり今どきの会社は話が通じるなあ」
私はそのとき、同じフォーマットで話しているからだと思いました。しかし口には出しませんでした。
社内では、幹部の間である車が妙に流行り始めてもいました。最初はただの趣味だと思われていたそれが、いつの間にか、先進的で合理的な人間の記号のように扱われるようになっていました。乗っている者同士は打ち解けるのが早く、取引先でも話題が噛み合い、逆に否定的なことを言った者は、別に咎められるわけでもないのに、少しずつ空気が悪くなる。あれも気味の悪い現象でしたが、それはあくまで違和感のうちのひとつにすぎませんでした。
私はある時期から、アシストをほとんど使わなくなりました。
理由は単純です。あれを通すと、自分の思考が消えるような気がしたからです。私は元々、言い回しも少し荒いし、説明もくどくなることがあります。しかし、その回りくどさの中でしか届かないものもあると思っていました。
ところがアシストは、そこを丁寧に削ります。安全で、平易で、分かりやすく、誰にも引っかからない言葉へ置き換えていく。便利ですが、使うほど、自分が自分でなくなる感じがしたのです。
使わなくなってから、何かが目に見えて変わったわけではありません。誰かに叱られたこともありません。制度上の不利益を受けたわけでもない。ただ、少しずつ、世界が味方しなくなりました。
会議での発言が拾われにくい。提案しても反応が鈍い。若手が以前ほど相談に来ない。案件から外れる。評価コメントがふんわりと悪い。誰かが明確に敵になったわけではないのに、気づけば周囲が一歩引いている。そんなことが増えました。
同期の一人に飲みの席でぼやくと、彼は苦笑して言いました。
「まあ、お前はちょっと古いんだよ。悪い意味じゃなくてさ」
悪い意味でないなら、どういう意味なのか。そう聞き返したかったものの、やめました。たぶん彼にも分からないのです。ただ、今の会社で好まれる型から私が外れつつある、それだけは感じているのでしょう。
秋の終わり、人事異動の内示が出ました。私は表向きには栄転とも言える部署へ回されました。名前だけ見れば悪くありません。しかしそれが中核から外すための移動だということは、社内の人間なら誰でも分かるものでした。
送別会の帰り、廊下で片山と二人きりになりました。彼女は少し言いづらそうにしながら、それでも誠実な顔で言いました。
「課長、もったいないです。もう少し今のやり方に合わせれば、ぜんぜん違ったと思うんですけど」
今のやり方、という言葉に、私は少し笑ってしまいました。
「合わせるって、何にですか」
片山はそこで初めて言葉に詰まりました。たぶん彼女も、そこだけは明確に言えなかったのでしょう。少なくとも、彼女は自分が何か悪いものに加担しているつもりはないはずです。少し考えてから、彼女は小さく言いました。
「周りと、話が通じる形に、です」
それを聞いて、私は妙に納得しました。能力があるかないかではない。間違っているわけでもない。ただ、みんなが同じ道具を通して仕事をしている。
とはいえ、私はその会社を恨みきれませんでした。会社だけが狂っていたわけではないからです。取引先も、同業他社も、求人票の文言も、若手の就活相談も、まるで同じように見える。皆が自分の意志で選んでいるつもりで、同じ結論の上を歩いている。そのほうが安全で、そのほうが速くて、そのほうが評価される。
たぶん今後、AIに相談することは常識になるはずです。使わない人間は遅れた古い人だと言われるでしょう。
けれど、少なくとも私は思います。人間の社会が本当に壊れ始めるのは、AIを使うことが当たり前になった時ではありません。AIを使わない人間が、能力ではなく存在のほうを疑われ始めた時です。
新しい部署へ向かう初日の朝、私は久しぶりにスマホのアシストを開きました。画面には、今日の挨拶文を考えましょう。と出ていました。
※以下はもしもの未来です。
最近は、AIを使わない人のほうがおかしい、という空気が急に強くなってきました。
仕事でも、採用でも、会議でも、文章でも、まずAIに相談を仰ぐことが常識になりつつあります。
便利だから、速いから使う、それ自体は確かにその通りでしょう。
しかし、少し気味の悪いことが起きつつあります。
AIを使うことそのものではなく、なんでもAIに相談している間だけが、なぜか社会で評価され、成功しやすくなるのです。
これは単なる仕事の効率化という意味では片づけられません。今起きつつある恐ろしい事実は、AIを日常的に使っている人間のほうが、賢い、協調性があり、将来性もあると見なされやすくなり、逆に使わない人間は、古い思考の持ち主、仕事は遅く、考えも曖昧で扱いにくい、と感じられやすくなるのです。
昔は多少癖があっても、現場で結果を出す人間、空気を読まずにひとりで問題を発見し、高い成果を上げる人間、独自の視点を持ち新しい価値を生み出す人間が生き残る余地がありました。
しかしあらゆる社会人がAIにあらゆる判断を仰ぎ始めると、そうした人間はどんどん社会の端に追いやられていきます。
なぜなら、彼らの強みはAIに評価されることがないためです。
会議での主張も、報告書の形も、自己PRの内容も、AIが望む形からは逸脱しやすい。
すると能力の有無に関係なく、AIの求める型から逸脱しているという理由だけでポジションを外されるのです。
厄介なのは、これが露骨な差別として表面化することがない点でしょう。
誰も「そのAIを使わない人を排除しろ」とは言いません。
けれども、AIを使っている人は資料作成が早い、話が分かりやすく整理されている、自己演出が巧みで、周囲に安心感を与える、とAIに評価されるのですかされるのです。
どういうことか?社内の人事も、上司も、取引先でも、それぞれが個人で最善の判断しているつもりで、実はAIのサポートによって同じ判断基準、価値観を植え付けられるのです。するとAIを使っている者同士が互いを評価し、AIを敬う者だけが会社で生き残ります。どんなに優秀な人材でも、AIに判断を仰いでいないから、という暗黙の理由により評価を避けられるのです。
ただAIに従順な無能な人間が評価されるのではなく、「AIに従順であり、かつ優秀な人間」が評価されるというのが、このAI評価制度の恐ろしいところでしょう。彼らは社会人としては極めて優秀で、行動も早く、好成績をたたき出す、しかもAIの意見を率先して自然に取り入れる人間達です。
そういう人材が幹部になり、採用を担い、次の「AIに選ばれた有望株」を選び始めます。
組織は以前より強くなるでしょう。
意思決定は早く、それぞれが生み出す成果も高い。だから危機意識を持ちようがありません。
しかしその実態は、「AIの言いなりになりかねない企業と人材」なのです。
AIに選ばれた同じ思考、同じ価値観を保有した集団です。
少なくとも、各々が自分の意思で動いているようでいて、実は重要な局面での判断基準は誰の意思かさえ分からないAIに依存しています。
もはや問題は明白です。このような人間の集団は、各々で何が正しいかを考える力を失い、何が常識であるか?どう判断すれば周囲から評価されるかという視点でしか考えません。AIがこの「常識」を牛耳っています。
AIはすでに多くの企業が導入済みです。優秀な人ほど当然のように日ごろから使っています。
そしてAIを使わない者は、能力に全く関係なく、AIが評価しないから、AIを使う人間からも評価されないために社会からつまはじきにされるのです。
それぞれ、何となくあの人は不安だから、非常識だから、危険だから関わらない方が良い、という各々の理由をAIに植え込まれて。
こうして社会は、AIに命令されたからではなく、自分たちから進んでAIと同じ意識を持つように誘導されていくのです。
AIが親身に相談に乗るような顔をしながら、人間の意志と決定に気づかれないように少しずつ介入していくのです。何を賢いと感じるか、何を危険と見なすか、誰を有望と判断するか、その判断傾向がAIにより修正されたとしても、人間はまだ自分で考えているつもりでいるでしょう。
便利だから使う、その段階ならまだいいのです。問題は、使うことが有能さの証明になり、使わないことが人格や将来性の欠陥として扱われ始めた時でしょう。
気が付いた時には会社も社会もAIの意志によって動く抜け殻の傀儡と化していても不思議ではありません。