今回の質問
できて当たり前と言われる物事が難しくなってしまう、ハードルを抱えているがために生きづらくなってしまう発達障害。
いったいどのような状態なのでしょうか?また、どのようなアドバイスができますか?
一般的には
一般的に発達障害とは、物事の理解力そのものが低いというよりも、注意力、対人感覚、段取り、感覚の受け取り方などに強い偏りがあり、そのために日常生活や社会生活で困りごとが生じやすい状態だとされています。
しかし、この説明だけでは現代でなぜここまで生きづらさが増幅するのかが見えてきません。問題は特性そのものだけでなく、現代社会が要求する能力の変質にあります。
知恵者の答え
発達障害者が現代で生きづらさに悩まされている理由は、社会で生きるために必要とされる能力が昔とは大きく変わってしまったためです。加えて、昔は診断されずに見過ごされていた発達障害的傾向や、栄養不良、周産期障害、感染など器質的な要因によって似たような困難を抱えた人も少なくなかったと考えられます。
例えば昔であれば、狩猟、農作業、土木、単純な反復労働など、身体を使って繰り返す仕事が今よりも多く存在していました。
そのため、多少の不器用さや対人面のぎこちなさ、認知の偏りがあったとしても、仕事そのものから直ちに排除されることはなかったのです。
もちろん昔も人間関係や共同作業は重要でしたが、現代ほど複雑な対人調整力、事務処理能力、時間管理能力、同時並行的な判断力までは広く求められていませんでした。
昔の仕事は、今よりも求められる能力が単純であり、多少の偏りを抱えた人でも役割を持ちやすかったのです。
実際には、こうした偏りが突出した才能として現れる場合もあります。
しかし大半の人にとって問題となるのは、才能の有無そのものではなく、その偏りを受け止める環境があるかどうかです。
発達障害であることを「活かす」ためには、いわゆる一般、平均、できて当たり前、常識、といった物差しから一度距離を置く必要があります。
なぜなら現代社会では、その平均に合わせられない者が能力の有無とは別に脱落しやすい仕組みになっているためです。
できて当たり前であるとことができないから発達障害として扱われるのです。しかし、それは本当に「できて当たり前である」のか?考える必要があります。
人間というのは健常者であれ誰であれ、能力や才能というのは必ず偏っているものです。
すべてが平均値の人間など存在しません。
しかし、現代社会では、特に日本においては、勉学や学習においても、「平均でなければ付いていけない」教育を平然と行っています。
すべての人間に対して、無理に平均を要求し続けること自体が誤りです。
人間には向き不向きがありますので、不得意な部分までを平均まで無理に引き上げることを強いられれば、得意な部分まで死んでしまいます。
大切なのは平均に揃えることではなく、その人が持つ偏りを活かせる場所へ導くことです。
奇妙な話ですが、無理に平均であろうとする人は、自他ともに「平均であることを押し付けようとする傾向」があります。
この平均とは、自分自身が「これが正しい平均だ」と思い込んでいるに過ぎないものであり、「平均の押し付け合い」は人間関係に軋轢を生むものです。
自分と他人は違うのだ、という言葉の意味をしっかりとくみ取り、自分の常識を相手に押し付けないことが肝要です。
発達障害の苦は、単に本人の能力不足だけで生まれているのではありません。
社会が平均を当然のように強要し、そこから外れた者を切り捨てやすい仕組みであるからこそ、生きづらさは拡大します。
だから必要なのは、無理に平均へ近づくことではなく、自分の偏りを理解し、それが致命傷にならない環境を選ぶことです。