付き合う前は感じがよかったのに、関係が近づいた途端に急に相手を試すようになる人がいます。わざと連絡を遅らせたり、曖昧な態度を取って反応を見たり、少し無理な要求を出してどこまで従うかを確かめたりするのです。本人としては相手を見極めているつもりなのでしょうが、その振る舞いは多くの場合、関係を深めるためではなく、壊す方向に働いてしまいます。
では、なぜそのようなことをしてしまうのでしょうか。表向きには「相手の本気度を知りたい」「裏切られたくない」「信頼できる人か見たい」という言い分になりますが、実際にはもっと根の深い事情が隠れているように見えます。
相手を試すという行為は、相手の価値を測っているようでいて、同時に自分にとって安全な相手かどうかを確かめている行為でもあるからです。
この種の人は、自他の境界が曖昧です。相手は相手であり、自分とは別の意思を持って自由に動く存在だということを、深層心理では受け入れていません。
そのため、相手が自由に動くことそれ自体を不安として感じやすくなります。好きな人が自由であることを喜べないのです。少なくとも心の深いところでは、自由な相手は裏切る可能性を持つ危険な存在に見えています。
しかし本質的には、他人の「行動」を信用していないというより、実際のところは、自分自身が「行動」というそのものを信用していない場合が多いのです。
なぜなら、自分こそが都合によって態度を変え、必要があれば行動で他人を裏切ることを常としているのですから。
自分の中にそういう価値観がある人は、他人の中にも同じものを強く見ます。すると、相手の誠実さをそのまま受け取ることができず、何か裏があるはずだと常に疑い始めます。
だから相手を試すのです。試すという行為は、遠回しに見えて、実際にはかなり強い束縛です。自分の想定した条件を相手に与え、その条件の中で期待通りに動くかどうかを確認するわけですから、相手を理解する行為ではなく、相手を自分の認識の枠に押し込める行為になっています。つまり相手を認めるために試すのではなく、自分が安心できる形に相手を縛るために試しているのです。
その動機の中心には、「相手の行動は自分にとって害をもたらすかもしれない」という強い思い込みがあります。愛情があるから試すのではありません。むしろ、愛情より不安が強いのです。そしてその不安の正体は、相手を失う恐怖だけではなく、他人を自分の思い通りにしたいという欲望、渇望です。
しかし、相手を試して得られる「従順さ」は、本質的には信頼とは真逆のものです。試される側は、最初は好意ゆえに応じるかもしれませんが、それが続けば必ずその束縛に辟易してくるでしょう。
束縛と試験が増えるほど、相手の中では「この人は私そのものを見ていない」という感覚が強まり、関係は静かに破綻へ向かいます。
このような人を見抜く方法は、意外と単純です。焦点になるのは、その人があなたの自由なふるまいを本質的に許しているかどうかです。
連絡、交友関係、気分の波、単独行動、価値観の違い、そうしたものに対して相手がどこまで許しているかを見ればよいのです。
言葉では「自由でいていい」と言っていても、実際には少しでも監視から外れると不機嫌になったり、圧をかけたり、黙って罰を与えるような態度を取るなら、その人は自由な他人をまだ愛せてはいません。
もちろん何でも放置すれば良いという意味ではありませんが、相手を試さずにはいられない人は、まだ相手を本質的に愛することのできる段階に至っていないと言えるでしょう。
相手を愛しているようでいて、実際には「自分が所有できる理想像」を愛しているに過ぎません。