今回の質問
仏教でいう「無我の境地」とは、いったい何なのでしょうか。
自分を無くすことなのか。何も考えない境地なのか。それとも、自分という存在そのものが本当は無い、という意味なのでしょうか。
知恵者の答え
無我の境地とは、自分が存在しないと信じ込むことではなく、自分と自分以外を隔てている「個の壁」という幻想を理解する境地です。
一般には「無我」という単語で伝わっていますが、この言葉の意味はかなり誤解されているように思われます。その本質とは、「無我」というよりも「無個」に近いものです。
無個とは、自分を消すという意味ではありません。
自分だけを特別扱いしている無意識の境界、ゆがんだ主観を取り払うということです。
自分という存在が無いのではありません。自分だけが絶対であり、自分の身分、自分の地位、自分の権力、自分の利益だけが特別に優勢されるべきものだという思い込みを手放すことです。
ここを取り違えてしまうと、無我の境地は一気におかしな教えになります。
自分は存在しない、自分は存在してはいけない、自分の欲も感情もすべて殺さなければならない。そのように解釈した瞬間、仏陀の教えは苦を取り払うための智慧ではなく、自分の生を罰するための思想になってしまいます。
無我とは、自分を殺すための教えではありません。自分だけを特別扱いしている無意識の深層心理を壊すための教えなのです。
無我が取り違えられた理由
仏陀の滅後、この教えは後世の人々によって取り違えられていきました。
なぜなら、無個の意味を本当に受け取れば、当時の支配階級の者達にとってはあまりにも都合が悪すぎたからです。
当時の仏弟子には、バラモン出身の者が多くいました。バラモンとは、身分制度の中で高い地位にあり、知識を持ち、宗教的な権威を持ち、社会の中で強い発言力を持つ人々です。
そのような人々にとって、「自分と他人の垣根が無くなる」という教えは、到底受け入れられる教えではなかったのです。
自分がバラモンであること。自分が尊敬されるべき身分であること。自分の言葉が下層の者より重いこと。自分は教える側であり、相手は教えられる側であるという上下関係。これは彼らからすればあって当たり前、至極当然のものであり、命よりも重い価値を持つものなのです。
無我の境地の下では、そのすべてが、根本から揺らぐのです。
もし本当に無個を受け入れるならば、彼らは自分の地位や身分を絶対視できなくなります。自分が上で、相手が下であるという社会的な壁を、修行の中で手放さなければならなくなる。
しかし、それは彼らにとって、あまりにも恐ろしいことでした。
地位にしがみついた者にとって、無我とは救いではなく、自分という存在を破壊する恐怖の教えだったのです。
自分の存在を無くす者
身分を手放すくらいなら、いっそ自分という存在そのものを無いことにした方が楽だ。おそらくは彼らの偏見が無意識下で出した結論でしょう。しかしこれは一見すると謙虚なようでいて、実はかなり歪んだ我の強い思考です。
自分の地位を捨てることはできない。自分の権威を手放すこともできない。下の者と同じ地平に立つことなど耐えられない。けれども、仏陀の教えは無視できない。
そこで自然に彼らのうちから湧き上がってきたのが、「自分と他人の垣根を越える」という教えを、「そもそも自分など存在しない」という教えへ転換することだったのでしょう。
本来なら、バラモンである自分と、スードラと呼ばれた最下層の人々との垣根を越えなければなりません。自分の権威、自分の優越、自分の特別扱いを手放さなければならない。
そうしなければ客観的に現実を直視することはできないのです。ゆがんだ眼鏡をかけていては正しい「観察」はできません。
しかし、「自分は存在しない」と言ってしまえば、現実の上下関係の問題や疑問には手をつけずに済みます。自分の社会的立場を温存したまま、いかにも深い悟りを語ることができてしまうのです。
本当に捨てるべきだったのは、自分の存在ではなく、自分だけは特別だという思い上がりでした。
サーリプッタ尊者が見抜いた傲慢
この境地を、サーリプッタ尊者の視点で見れば、かなり厳しいものになります。
自分は存在しない、自分はいてはいけない、自分を消さなければならない。そう考える人間は、一見すると我を捨てようとしているように見えます。
しかし実際には、自分という個人を手放すことが怖くて仕方がないのです。
自分と他人の垣根を越えて、他者のために働くことができない。自分の権威を下げて、相手と同じ場所に立つことができない。自分が特別扱いされなくなることに耐えられない。
だから、その苦しさから逃げるために、今度は「自分そのものを無くす」という極端な方向へ走るのです。
しかし、それは本当の意味での無我ではありません。
むしろ、自分という存在に強烈に執着しているからこそ、「自分が無くなる」という発想にしがみつくのです。自分が消えれば世界も消える、自分が無ければ苦も無い、そのように考える時点で、まだ世界の中心に自分を置いています。
ここが無我の理解の難しいところです。自分を大きく見せる我もあれば、自分を消そうとする我もある。
前者は分かりやすい傲慢ですが、後者は一見すると謙虚な顔をして現れるため、見抜くことが難しいでしょう。
無我を他人に説く危険性
自分を無くす行そのものは、修行の一つとしてあり得ます。
自分の欲、自分の怒り、自分の見栄、自分のこだわりを観察し、それがどこから生まれているのかを見抜く。その過程で、自分への執着が薄れていくことはあるでしょう。
問題は、それを他人に強要し始めた時です。
地位の高い者が、下の者に向かって「お前は我を捨てよ」と説く。権力を持つ者が、従う側に向かって「自分を無くせ」と語る。これは、悟りではありません。
バラモンがスードラに向かって、偉そうに無我を説く滑稽さはここにあります。
自分の地位は守ったまま、相手には自分を捨てろと言う。自分の権威は温存したまま、相手には我を無くせと命じる。
これほど分かりやすい傲慢はありません。
無我を他人に強要した瞬間、その人は自分がまだ悟っていないことを露呈します。
本当に無我を知る者は、他人に自分を消せとは言いません。相手を見下したい欲、自分が正しいと思い込みたい心理、尊敬されたい、責任を回避したいと思う心を見つめるのです。
無我とは、自他の境界を越えて責任を持つこと
無我を「自分が存在しない」と理解すると、現実を捨て去るだけになります。
けれども無我を「自分と他人の垣根が薄れる」と理解すると、むしろ現実への責任は重くなります。
なぜなら、他人の苦しみを自分と無関係だと切り捨てられなくなるからです。
自分だけが助かればよい。自分の家だけが守られればよい。自分の身分だけが安泰ならよい。自分の宗派、自分の会社、自分の国、自分の家族だけが得をすればよい。
そうした単調な狭い考えに囚われなくなることが大切です。
ただし、無我とは、誰かのために自分を奴隷のように差し出すことではありません。自分を粗末にすることでもありません。
自分と他人を分けていた壁が薄くなるからこそ、自分も他人も同じ因縁の中にあることが理解できるのです。自分の行動が他人影響を与え、他人の苦しみが巡り巡って自分にも返ってくる。その構造が見えてくる。
善悪の概念を取り払い、自分を含めた世界を「客観視」することで見えてくる世界があります。
無我は現実逃避ではありません。むしろ、自分の行為の結果から目を背けられなくなる、逃げられなくなる境地です。
仏教の無我の境地とは、自分の存在を否定する思想ではありません。
自分と他人、自分と世界、自分の利益と他者の苦しみを切り離して考える、その狭い個の壁が崩れていく境地です。
後世の人々は、この教えを「自分など存在しない」という方向へ取り違えました。しかし本来問われていたのは、自分の存在の有無ではなく、自分だけを特別に守ろうとする執着だったのでしょう。
地位、身分、権威、肩書、知識、宗教的な立場。そうしたものに執着したまま、他人に無我を説いても意味はありません。
ただし、それは地位や身分をただ手放せという意味でもありません。
そこを見誤ると、無我は悟りではなく、ただの自己否定になります。そして自己否定を他人に押しつける者は、仏教を語りながら、もっとも傲慢な境地にあるとも言えるのです。
