今回の質問
自閉症スペクトラムの人には、カルマ的な共通原因があるのでしょうか。
人との会話がうまく噛み合わない。相手の気持ちや場の空気が読みにくい。予定外のことが起こると強く混乱する。曖昧な指示や、言葉にされていない前提が理解しづらく、社会の中で生きにくさを感じることがあります。
これは個人のカルマなのでしょうか。
それとも、現代社会そのものが作り出している問題なのでしょうか。
知恵者の答え
自閉症のカルマ的共通点は、意味理解の回路に偏りがあり、世界を人間関係の流れで読むより、法則や手順として解析しようとするところにあります。
ただし、これはその人だけが背負っている個人のカルマというより、現代社会全体のカルマが、特定の性質を持つ人たちの上に強く現れているものだと見るべきです。
一般には、自閉症スペクトラムは、生まれつきの脳の特性、コミュニケーションの苦手さ、こだわりの強さ、感覚過敏などとして説明されます。
昔から、寡黙で、融通が利かず、同じ作業を黙々と続ける人はいました。むしろ昔の社会では、そのような人は「真面目な人」「職人気質の人」「余計なことを言わずによく働く人」として重宝される場面も多かったのです。
明治時代どころか、昭和の企業社会でさえ、従業員に求められていた理想像は、必ずしも高度なコミュニケーション能力を持つ人間ではありませんでした。上から言われたことを理解し、黙って手足を動かし、決められた仕事を大人しく続ける人間が、役に立つ人として扱われていました。
ところが現代では、その評価軸が大きく変わりました。
今の企業は、従業員に対して過剰なコミュニケーション能力を求めています。ただ作業ができるだけでは足りない。上司の意図を汲み、顧客の空気を読み、同僚と連携し、曖昧な指示を自分で補い、状況に応じて柔軟に判断することまで求められます。
ここに現代社会のいびつさがあります。
本来ならば、組織全体の方向を読み、対外折衝を行い、多様な人材を管理し、従業員が働きやすいように指示を出すのは管理職の仕事です。ところが現代の管理職は、グローバル化、IT化、多様化の変化に十分ついていけなくなっています。
その結果、管理職が担うべき意味づけや調整の仕事が、下の従業員に丸投げされているのです。
「こちらはうまく指示を出せない。だから、そちらで空気を読んで、こちらの意図を汲み取って、勝手にうまくやってくれ」
現代企業が言うコミュニケーション能力とは、かなりの部分でこのようなものです。
コミュニケーション能力とは、本来、人間同士をつなぐ力ですが、現代ではしばしば、管理者の能力不足を現場に背負わせる言葉になっています。
自閉症傾向のある人が苦しむのは、まさにここです。
彼らは努力していないのではありません。むしろ多くの場合、努力しすぎています。ただし、その努力の方向が、人間関係の曖昧な流れを感覚的に処理する方向ではなく、法則化、手順化、固定化の方向へ向かいやすいのです。
相手がなぜ怒ったのか分からない。なぜ昨日は許されたことが今日は許されないのか分からない。なぜ同じ言葉なのに、場面によって意味が変わるのか分からない。だから、何とかしてルールを探そうとします。
この人はこういう時に怒る。職場ではこの言葉を使ってはいけない。会議ではこの順番で話す。相手の顔がこうなったら黙る。そうやって、混沌とした人間関係を法則に変換しようとするのです。
しかし人間関係は、完全な法則にはなりません。
相手の機嫌、立場、利害、疲労、周囲の目、過去の経緯、上下関係、その場の空気。そうしたものが複雑に絡み合って、人の反応は変わります。だから、法則だけで理解しようとすると、必ずどこかで破綻します。
ここでいう意味理解とは、単に言葉の辞書的な意味を理解することではありません。言葉の背後にある立場、意図、感情、文脈、相手が本当は何を守ろうとしているのか、その総体を掴む人間観察力のことです。
例えば、上司が「適当にやっておいて」と言ったとします。
ある人は、この言葉の裏にある意味を読みます。急ぎではないが雑にしてよいわけではない。上司は細かく説明する余裕がない。以前の資料を参考にして、最低限の体裁を整えて出せばよい。そういう意味を、言葉にされなくても補完します。
しかし自閉症スペクトラム傾向が強い人は、「適当」とはどの程度なのか、どこまでやればよいのか、何を基準に判断すればよいのかが分からず、そこで止まってしまいやすい。あるいは逆に、完璧に仕上げようとして時間をかけすぎます。
これは怠惰ではありません。意味を補完する回路に偏りがあるから、曖昧な指示がそのまま負荷になるのです。
自閉症傾向の人にとって、人間関係とは自然に泳げる海ではなく、毎回ルールを解析しなければならない未知のゲームになりやすいのです。
だから、こだわりが強くなります。
こだわりとは、単なるわがままではありません。変化する世界に対して、少しでも予測可能な足場を確保しようとする働きです。手順が同じなら安心できる。ルールが明確なら動ける。予定が見えていれば心を保てる。逆に、突然の変更や曖昧な指示が入ると、世界の足場が崩れたように感じる。
ここにカルマ的な構造があります。
自閉症スペクトラム傾向の人は、世界を理解するために法則へしがみつきます。けれども、現代社会はその法則をどんどん曖昧にしています。職場では柔軟性が求められ、学校では協調性が求められ、家庭では空気を読むことが求められます。しかし、その求めている側も、実は自分たちが何を求めているのかを正確には言語化できていません。
だから、自閉症スペクトラム傾向のある人だけが失敗しているのではありません。
社会の側が、意味を言葉にする責任を放棄しているのです。
特に日本では、この傾向が強く出ます。日本社会は、言葉にしない了解、場の空気、暗黙の前提、上司の顔色、周囲との横並びによって動いてきました。その社会が、急にグローバル化やIT化に対応しようとしている。けれども、明確な指示、契約、役割分担、責任範囲を作る能力がまだ十分に育っていない。
その不足分を、「コミュニケーション能力」という曖昧な言葉で現場に押しつけているのです。
役割や責任範囲が明確であれば、人は自分のすべきことに集中できます。逆に、役割が曖昧で、指示も曖昧で、評価基準も曖昧であれば、仕事そのものよりも、周囲の空気や上司の気分を読み続けることに力を使わされます。
これでは、意味理解の負荷が高すぎます。では、どうすれば改善できるのでしょうか。
まず必要なのは、曖昧なものを曖昧なまま受け取らないことです。
「ちゃんとして」「普通にやって」「空気を読んで」「適当にして」と言われたとき、そのまま受け取ると破綻します。その言葉が具体的に何を意味するのかを確認しなければなりません。どこまでやればよいのか。何を優先すればよいのか。期限はいつか。判断基準は何か。誰に確認すればよいのか。
これは甘えではありません。意味理解の回路を外部に作る作業です。
次に必要なのは、人間の行動を善悪で見る前に、立場と利害で見ることです。
自閉症スペクトラム傾向のある人は、相手の行動が理解できないと、相手を理不尽だ、間違っている、嘘をついている、と判断しやすいことがあります。しかし人は、必ずしも正しいか間違っているかで動いているわけではありません。自分の立場を守るため、面子を守るため、責任を逃れるため、疲れているため、不安を隠すため、周囲に合わせるために動いています。
ここを見落とすと、人間がただの不合理な存在に見えてしまう。
しかし、その不合理にも構造があります。
上司が曖昧な指示を出すのは、本人も答えを持っていないからかもしれない。
同僚が急に冷たくなるのは、あなた個人を嫌っているのではなく、周囲の評価を気にして距離を取っているだけかもしれない。
家族が怒るのは、言葉の内容ではなく、自分が軽んじられたと感じたからかもしれない。
自閉症傾向の改善とは、人間の反応にも法則があると知り、その法則を少しずつ観察していくことです。
これはヴィパッサナーにも近いものです。
自分の感情を観察するだけではなく、他者の反応も観察する。自分が何を言ったとき、相手の表情が変わったのか。どの場面で空気が重くなったのか。相手は何を失うことを恐れていたのか。どの立場を守ろうとしていたのか。
そうして観察を積み重ねると、人間関係は完全な暗闇ではなくなります。
ただし、自閉症傾向の人にすべてを背負わせるのは間違いです。
もし従業員全員が、高いコミュニケーション能力、調整能力、判断能力、交渉能力を身につけたなら、その時点で管理職は不要になります。管理職が部下にそれを求めすぎるということは、自分の存在理由を自分で削っているということです。
自閉症スペクトラムの人が社会に適応できないのではなく、社会の未熟さが彼らによって暴かれているのです。
ゆえに、改善の道は一つです。曖昧な世界を、少しずつ具体的な意味に変えていくこと。
自分の中でも、相手との間でも、職場や社会の中でも、言葉にされていないものを観察し、言葉にし、構造に変えていくことです。
自閉症スペクトラム傾向の人が生きやすくなる社会とは、実は誰にとっても働きやすい社会です。曖昧な圧力ではなく、意味と役割が明確にされた社会だからです。
そして、その社会を作れないまま、個人にだけコミュニケーション能力を求め続けるなら、現代社会はますます多くの人を「適応できない人」としてあぶり出していくことになるでしょう。
