今回の質問
なぜ人は、有能な相手に劣っていると感じたとき、『自分が劣っている結果』として受け止められず『相手が悪人だからだ』と感じてしまうのでしょうか。
あの人は自分より仕事ができる、頭がいい、要領がいい、勝負にも強い。けど、ずるい、性格が悪い、ムカツク、反社会的だと感じてしまいます。
これは単なる嫉妬や負け惜しみなのでしょうか。
それとも、能力差を道徳の問題にすり替えてしまっているだけなのでしょうか。
知恵者の答え
能力差を道徳の問題として感じること自体は、別に間違いではありません。
なぜなら人は、能力差そのものを恐れているのではなく、それによって自分が一方的に不利な立場へ置かれることを恐れているためです。
言い換えれば、能力による格差が暴力を振るうための免罪符として使われることを恐れているのです。
一般的には、敗者の反発は嫉妬だ、負け犬の遠吠えだ。と捉えられがちです。
たしかに嫉妬はあるでしょう。妬みや羨みが暴力の起点となることもあります。しかし、この能力差が単なる評価として扱われず、人間の序列や発言権や扱いの差に結び付くことが問題となるのです。
正しい者や有能な者に反発する側こそ非道徳だ、と言う人もいるでしょう。
しかし、そもそも道徳とは絶対に守られるべき神聖な教えではありません。
強い者が弱い者を好き放題に食い潰さないための、制動装置のようなものです。
ところが現実には、実力主義、公正な評価、正しい努力といった言葉が、逆に暴力を容認する言い訳として使われることも珍しくありません。
現実には、その能力や建前の正義によって弱者に暴力が振るわれていることも珍しくないのです。
仕事ができる人間が、できない人間を見下す。
頭の回転が速い人が、他人の発言権を奪う。
勝者が、敗者に再挑戦の余地すら与えず、従うことを強要する。
有能であることが事実だとしても、その能力を権力として振りかざし、他人の人格や自由まで奪い始めた瞬間、それはもう単なる能力差などではありません。
自分は正しい、自分は有能だ、自分は成果を出している。だから、他人を貶める正当な権利がある。正しさや有能さを振りかざすことが、他人を傷つける免罪符になった瞬間から平然と人を傷つけるようになります。
そして、これが現代社会でもさも当然のように繰り返されています。
勝負や勝敗を決すること、それ自体は悪でもなんでもありません。
そして個々の能力差も、現実として存在します。
しかし、もしも勝者がすべての利益を独占し、敗者の権利を一方的に虐げ、侮辱や排除や被虐につなげるなら、それはもはや単なる勝ち負けではありません。
もしも勝手に参加費を徴収されて、損失だけ押しつけられるギャンブルに参加させられたとしたら、どう感じるでしょう。それを非道徳的と非難することは決して間違いではありません。
人は嫉妬することで相手を非難することがあります。しかしその能力差が、そのまま自分の危機を招くことを恐れるために、本能的に道徳の問題として捉えている節もあるのです。
本質的に大事なのは、能力差そのものではなく、その能力を持つ人間がそれを何のために使おうとしているか、自分にとって本当に害となる相手なのかを見抜くことです。
少なくとも、正論や立場、能力を振りかざして、こちらの尊厳や利益を一方的に奪ってくる相手と、真正面から付き合う必要はありません。
そんな相手からは離れるのがベストです。もしくは時として反抗する必要があるかもしれません。能力は正義を振りかざすための免罪符でも何でもないのですから。
逆に、質問者が能力を持つ相手を恐れすぎている可能性もあります。能力は権力として働く性質がある以上、過剰に忌避をすると不利になってしまう恐れもあります。相手がどちらの人間なのか?見極めることが大切です。