今回の質問
悪人が栄えて、善人が虐げられているように見えることがあります。
真面目でおとなしい人ほど損をして、人を攻撃する横暴な人ほど得をしているように見えるのは、なぜなのでしょうか。
本当に善人は報われず、悪人ばかりが勝つようになっているのでしょうか。
知恵者の答え
この質問の善人というのは、道徳的な立派な人という意味ではありません。
虐げられている側、理不尽に反抗する力を持たない人を、善人と呼んでいるにすぎないのです。
だから答えは単純です。善人が虐げられるのは、悪を働くだけの力がないからです。
こう聞くとあまりにも冷徹に聞こえるかもしれません。しかし、まずここを取り違えてはいけません。
人はしばしば、反撃しない者、弱者を善人だと思い込みます。けれどそれは、その人に本当に害意がないからではなく、害意を現実化するだけの立場も力もないだけ、ということが珍しくないのです。
世の中では、力を持っている者、他人を押しのけ、奪い、従わせる者が「悪人」と呼ばれます。
押しのけることも奪うこともできず、ひたすら耐えている者は善人と呼ばれやすい。
しかしこれは人格の中身を見ているのではなく、その人が今どちらの位置に置かれているかを見ているだけです。立場が変われば評価も簡単にひっくり返ります。
実際、職場で上司に押さえつけられていた人が、自分より弱い部下を持った途端に横暴になることがあります。
家庭で理不尽に扱われてきた人が、今度は子どもや配偶者を持った途端に支配的になることもあります。
学校でいじめられていた者が、別の弱い相手には残酷になることもあります。
このとき周囲は、「あの人は本当は優しい人だと思っていたのに」と驚くことがありますが、実際には彼らは優しかったのではなく、今まではその攻撃性を発揮する機会がなかっただけなのです。
つまり、善人と悪人は固定された別種の人間ではありません。多くの場合それは、立場によって分かれている表と裏の関係です。
上に立てば悪になる者が、下にいる間だけ善人に見える。
ですから、虐げられているから善であり、支配しているから悪だと単純に決めつけると、本質を見失います。
もちろん、力を持ってもなお、他者を踏みつけない人もいます。そこにこそ本当の意味での人格が現れます。
権力、金、人望、暴力、発言力。相手を虐げることができる力を持ったとき、それでもなお相手を虐げない者だけが、本当に善であると言えるでしょう。
ですから、悪人が栄えて善人が虐げられているように見えるとき、見なければならないのは彼らの持つ道徳の看板ではありません。
力のない者を見て勝手に善人にしないことです。少なくとも人間は、弱い間だけ善人に見えることがある。その現実を直視しなければなりません。
結論を言えば、悪人が栄えて善人が虐げられているのではありません。力を持った者が悪を実行でき、力を持たない者はそれを実行できないだけです。そして両者は、しばしば同じ土俵に立っているだけの、同じ人種です。
ただし、権力を振るうことで他人に負担を強いること自体が、真に悪とも限りません。
大きな物事を成すには、必ず犠牲や不利益や痛みが伴います。例えるならば民主主義革命や産業革命のように。
分かれ目となるのは、その負担が全体のために必要なコストなのか、それとも自分の欲のために他人を虐げているか、なのかです。
責任を引き受けたうえで必要な痛みを容認する場合は、その選択が過酷だとしても必ず悪とは限りません。
反対に、自分は何のリスクも背負わずに、代償をだけを他人に払わせる者こそ、真に悪と言えるかもしれませんね。