今回の質問
苦手な人のそばにいると、ひどく疲れてしまいます。
話しているだけで消耗したり、妙に気を張ったり、帰ったあとまでどっと疲れが残ることがあります。
こういう相手とは距離を取るべきなのでしょうか。
それとも、こちら側にも何か原因があるのでしょうか。
知恵者の答え
苦手な人といると疲れるのは、相手の性格が悪いから、という簡単な理由だけではありません。自分のいつもの話し方、距離感、立場が、相手には通じず、自分の立場がぐらつくためです。
最大の原因は、その人がすでに持っているコミュニケーションの型と、今の立ち位置との摩擦です。
自分の中の秩序を乱される相手と接触することによって疲れるのです。
本当に考えるべきなのは、相手が悪人かどうかではなく、その人が自分の中の何を不安定にしているのか、という点です。
一般には、苦手な相手といると疲れるのは、その相手が高圧的だから、空気を読まないから、感情の起伏が激しいから、あるいは自分が繊細だからだと説明されます。実際、露骨に失礼な人や、他人の境界を平気で踏み越える人と一緒にいれば、誰でも神経を使うものです。
しかし、それだけでは、なぜ同じ人を相手にしていても、平気な人と極端に疲れる人がいるのかが説明できません。
同じ無遠慮な人を前にしても、まるで気にしない人もいれば、たった数分で疲労困憊する人もいるからです。
人は普段、慣れ親しんだ話し方、距離の取り方、上下関係の中で生きています。ところが、苦手な相手の前ではその慣れ親しんだ型がうまく通じない。いつもの通りの話し方で対応できない。だから疲れるのです。
つまり相手を苦手に感じる理由は、単に自分にとって悪い人だからではありません。自分の慣れた世界の形を崩そうとする相手なのです。
こちらが相手を苦手だと感じるなら、相手から見てもこちらは扱いづらいと感じることが多いでしょう。
そして何より、苦手な相手は、自分が許容できないようなコミュニケーションの形、避けたくなるような感情、距離感を持っているということの証明でもあります。相手の欠点を見ているようでいて、実際には自分のコミュニケーションの許容範囲も同時に確認させられているわけです。
例えば貴族は庶民を苦手とすることが多いと言われていますが、これと同じです。
庶民が彼らよりも劣っているからではなく、言葉遣い、感情表現、距離感すらもなじみの型からかけ離れている、自分の流儀が通じないから不快になるのです。
日ごろから威圧的な社長が、さらに上の権力者の前で急に苦手意識を持つことがあります。これも同じ事で、自分の馴染んでいるコミュニケーション手法が相手に通じない場では、人は不快を強く感じるものです。
では、苦手な相手はすべて克服すべきなのでしょうか。それとも距離を取ってよいのでしょうか。今回の論点はそこです。
相談では、「害がある」ではなく「疲れる」と言っています。
そのため、ここはいったん、考える余地があるでしょう。
実害を伴う相手、たとえば詐欺のようにこちらの金銭や尊厳を直接害してくるような相手なら、相手を避けるのが最適です。
こちらを害することを目的とする相手と無理に付き合っても自分の成長のための経験となることはほとんどないでしょう。
しかし、「疲れる」のであれば、必ずしも相手が自分にとって害がある存在とは限りません。
単に自分の嫌悪感が勝っているだけのこともあります。
相手の奇妙なコミュニケーションによって、負担が強いだけかもしれません。
たとえばアイドルは、疲れる人ばかりを相手にしているはずです。
距離感のおかしい人、感情をぶつけてくる人、過剰に敬ってくる人、敵意むき出しの人。そうした相手を前にして、いちいち全部を苦手と言って逃げていたら仕事になりません。
結局は、疲れる相手への適切な対処法を身につけることそれ自体が、その人の能力になることがあるです。
ここで問うべきなのは、それが自分にとって乗り越える価値のある負荷なのか、それとも避けるべき負債なのかということです。
人間関係というものはみな、日常生活と直結しているものです。慣れ親しんだコミュニケーション術は、そのまま今の自分の立場や仕事、役割に直結しています。
だからそれが通用しない場合、極めて強い不快感を感じるものです。
相手と対峙することによって、自分の立ち位置や扱いが変わってしまうのを直感的に警戒しているといえるでしょう。
この感覚は、その人の立場によって逆転します。社長が立場を失えば損失が大きいのは勿論当然ですが、守られる立場に依存している人も、その立場を失えば一気に不利になります。お姫様気分で周囲に支えられていた人も、その「守られる立場」を失うのは大きいものです。
子どもは子どもの立場を失うとつらい。父や母は父や母としての立場を失うとつらい。社長も姫も、それぞれ自分の立場の中で生きており、その立場を脅かされることに強く恐れるものなのです。
どのような人間関係も、ある程度はギブアンドテイクです。与えるから与えられる。
多くの人はそれを道徳や好き嫌いの問題として解釈していますが、実際には直感的にかなりの損得勘定をしています。
この人といると何を失うのか、この関係は自分の得になるのか、それとも害なのか。
無意識に計算しているわけです。
ただし、人はその損得を測り間違えることが多い。
本当は乗り越える価値のある課題まで「この人は苦手」と切り捨ててしまい、自分の世界を狭めてしまうことがあります。
逆に、本当は避けるべき有害な相手に対して、「これは修行だ」「自分が悪いだけだ」と誤魔化してしまうこともあります。
だから苦手な人が現れたときには、単に相手を悪者にするのではなく、その相手が自分の中の何を壊すのかを観察すると良いのです。
自分の礼儀か、距離感か、立場か、安心感か、他の人間関係か、それともプライドか。
自分が苦手に感じる人というのは、自分自身の問題であると同時に、自分の守っている秩序を映す鏡でもあります。
職場でやたら無遠慮な人が苦手なのは、その人が失礼だからだけではありません。
自分が守っている礼儀の秩序を崩してくるからです。
ママ友の輪で一人だけ空気を読まない人が嫌われるのも、単に性格が悪いからではなく、その場の役割や立ち位置を崩してしまうからでしょう。
さらにいえば、浮浪者や生まれで人が差別されるのも、単なる偏見だけが理由ではありません。
自分の生活圏や秩序を乱されることへの防衛が、差別感情の形を取ることもあります。
もちろん差別が正しいという話ではありません。ただ、人間がなぜそうした反応をするのかを見れば、そこにも損得と防衛の感情が入り混ざっているのです。
結局のところ、苦手な人のそばで疲れるという現象は、相手の性格だけの問題でも、自分の繊細さだけの問題でもありません。
自分のコミュニケーションの型と立ち位置が、その相手との間で摩擦を起こすからです。
そして本当に考えるべきなのは、その疲れが、自分を壊す無駄な消耗なのか、それとも自分を成長させる価値のある負荷なのかという点です。
苦手な相手を見るとき、人は実際には自分の中の秩序とも対面しています。それが理解できれば、苦手という感情は、ただの嫌悪ではなく、自分の立場と限界を知る教材に変わります。