仏教・霊性・スピリチュアル

アセンションと末法思想 アセンション思想のカルマ

two hands of people laying on flowery meadow stretched out to sky

「アセンション思想」とは、善なる者が高次元の存在によって救われて生き残り、逆に高次元や宇宙の意思に反する悪者は、滅ぼされて地獄に落とされるという思想です。

一見すると善なるものが救われる、正しい教えに見えるでしょう。しかしその実態は単なる救済思想ではありません。誰が救われ、誰が切り捨てられるのかを決める、人民選別のための思想でもあります。

この型は、現代スピリチュアル界隈に突然現れたものではありません。仏教では末法思想として、近代では終末論として、形を変えながら繰り返し現れてきました。名前だけが違うのであって、善なる自分達だけが助かり、教えに逆らう他者は滅びるという思想のその骨格は、ほとんど変わっていないのです。

その源流をたどれば、旧約聖書等の選民思想にまで遡ることができます。自分たちこそが神に選ばれた民であり、敵は滅ぼされるべき存在だとする考え方です。当時は異民族同士が生き残りを賭けて争う時代でしたから、その思想にはまだ分かりやすい現実的な役割がありました。自分たちの共同体を守るために、敵を悪と定義し、討つ理由が必要だったのです。

しかし時代が下るにつれて、守る対象は民族から国家へ、さらに国家から教義そのものへと移っていきました。

すると何が起こるか。教義に従う者が善であり、それに従わない者は悪である、という構図が社会の中心に居座るようになります。異民族や異教徒は、単に違う相手ではなく、断罪されるべき存在へと変わっていったのです。

この教えは、戦争や侵略の正当化にも使われました。相手を同じ人として捉えるのではなく、神に背いた反逆者、秩序を乱す悪魔、滅ぼされるべき存在として扱えば、攻撃する側は自分を正義だと思い込めます。現実はどうであれ、自分を善と信じるために、悪を必要としたのです。

ところが、時代がさらに進むと、異民族を滅ぼせば済む時代は終わり、社会の内部に様々な価値観や文化や立場の違う人間が共存する時代に入りました。
しかし、人間は教義(正義)のもとに他者を攻撃するという生き方を長い歴史を通して培ってきたため、この人間としての業となってしまった生き方を簡単にはやめられないのです。


今までは悪として滅ぼしてきた異民族の代わりに、社会や神の法に背く者、犯罪を犯す者、教義に反する者、社会的に好ましくない人々を悪と見なして彼らを弾圧・迫害するように変化していきました。


悪を裁き、悪を攻撃することによって自らの心が安らかになる時代が訪れたのです。

しかし、教義のもとに悪を裁くという行為にもついには限界が訪れました。グローバル化の時代の到来です。


それまでの社会では、教義や法によって定められたルールを守る善人とそれらに反する悪人という構図が出来上がっていました。

しかし、グローバル化によって、同じ国家や文化の中に色々な民族や宗教、人種が入り混じるようになり、多様な教義やルールが混在するようになったのです。

今まで、自分たちが、社会から尊重されず、善性に見合った立場を得られておらず、不平等に扱われていると思っていたために、万民に対する自由平等を渇望していたところ、遂にそれが実現してしまったのです。


万民の自由平等を標榜していたために、今まで社会の暗黙のルールや宗教的な教義によって「悪」と決めつけていた人々の自由、平等、公平性まで尊重しなければならなくなったのです。

善悪の構図がついに崩れ始め、個人の自由・平等・権利こそが最も尊重するべきとする社会が訪れたのです。
この形こそが自分たちが理想としていた善なる教義の終着点であり、最も正しい規範の究極の姿になるのです。

しかし、やはり長年の歴史で培われてきた人間の生き方、性(サガ)は、そう簡単に変えることができないものです。

今まで「悪」を叩くことで「善人」の地位を得ていた彼らにとっては、きわめて過酷な時代がやってきました。

裁くべき悪がいなくなったために、彼らもまた「悪を裁く善人」ではいられなくなったのです。

こんな善悪の価値観をかたくなに守り、捨てられない人々は、なかなか新時代の価値観を受け入れられません。

新時代のグローバルな自由平等の考えを持つ人自体が、彼らにとっては悪そのものだからです。

彼らにとっては、自分たちの悪を挫く善性、善行が社会から認められないこの現代は、まさに地獄そのものと化すでしょう。

これこそが、「アセンションという教義」を「人を傷つける刃」として振りかざし、「他者を断罪しようとした」結果のカルマなのです。

アセンションという教義に囚われ、時代の変化を拒絶してしまうと、実は取り残されるのは自分たちの方になってしまうのです。

しかし、それが渇愛(タンハー)となっている以上、彼らはその概念にこだわること、そして悪を旧来の価値観によって裁くことをやめられません。

この縁起(終わらないループ)が、カルマとなって彼らを無間地獄へ閉じ込めてしまうのです。

ここから逃れるには、自分自身の心のあり方を見つめ直して、自分の価値観を世の変化に合わせて変えていくしかありません。