【質問】
能登半島地震での地震犠牲者や関連死の方が増えています。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
ご遺族の悲しさと悔しさは如何ばかりかと察して余りあり、慰めの言葉もなかなか出てきません。
改めて自然災害の残酷さや虚しさを感じます。何を今後の糧にすればいいのかを教えてください。
【答え】
今回の地震で家族を失った人々は、その家族の死が「無駄死に」の様な気がして、悔しく虚しい思いを抱えていることでしょう。
そしてそういう気持ちは誰から何を言われても、なかなか癒されるものではありません。
辛いことですが、遺族はその思いを噛みしめ続けていくことになるでしょう。
酷な話ですが、この「悔しさを噛みしめ続けていくこと」こそが、「遺族としての役割」になります。
実はそれこそが、今後の危機意識の維持に繋がる大元になるからです。
古来より日本人は、常に自然災害への危機意識を持ちつつ生活していたのですが、現代の日本人は危機意識というものをすっかり忘れ去っています。
それは、家屋の建築の仕方にも表れています。
昔の漁村では、二階建て家屋は建てませんでした
漁村等では最近は2階建ての家が主流を占めています。
ところが、昔は地震時の倒壊を恐れて平屋の家しか建てませんでした。
これは、常に地震災害を予想していたゆえの危機対策でした。
そして今回の地震では、やはり2階建て以上の倒壊によって被害が拡大しています。
特に戦後は、「何かあったら誰かが助けてくれるから何とかなる・・」という危機意識の希薄な状態が国中に蔓延したために、地震に対する危機感も薄れてしまいました。
戦前の「限界集落民」の危機意識とは・・
当時の限界集落民の意識状態は
「何かあっても誰も助けには来られないので、自分たちで村を守って維持、復興しなければならない・・」でした。
こういう意識から、命に係わる井戸が枯れた時の為に、予備の第二、第三の井戸を村人総出で用意していたものです。
ところが現代は、水道管を捻りさえすれば何時でも水が出るので、安心しきってしまい、自分たちで率先して行動をすることを止めてしまいました。
つまり、村のインフラを自分たちで維持しようという意識が希薄になっているのです。
そしてさらに昔は、村人たちの力で村のインフラが維持できないと判断した時には、見切りをつけて村を捨て去ったのです。
一方、「少子化の進む現代の限界集落」も、資金、人材の両面からインフラの復興が難しくなっています。
現代においてもインフラの復興が困難ならば、村を離れてもっと都会に移住することを余儀なくされるかもしれません。
限界集落の人々は、難しい判断を迫られることになるでしょう。
どんな過酷な判断を求められたとしても、常日頃から危機意識を持ってシミュレーションをすることで、迅速、的確な判断と行動が可能になります。
そのためには常に自然災害に対する危機意識を絶やさないことがとても大切になります。
その大きな原動力になるのが、災害で身内を亡くした遺族の方々の悔しくて切ない思いなのです。
遺族の方々がその辛い思いを維持することで、今後の日本人の危機意識を高めることに貢献されることを願ってやみません。