【質問】
仏陀の教えから・・何が自分の「苦の源」なのかを知る方法 その1
仏陀の教えから・その2「苦」と向き合う(渇愛・タンハーを滅する修行)
以上の2件から、「苦」を滅するためには「苦」と向き合って、その大元である渇愛(タンハー)を消滅することが、最も重要であることが分かりました。
そして無意識に常日頃行っている自分の悪癖や問題行動をコントロールすることが、修行であることが分かりました。
ところで、同じ人生の「苦」と言っても、空腹で食べ物がない物理的な困窮状態や、生まれながらに奴隷状態で身分が縛られているなど、渇愛(タンハー)の修行だけでは直ぐには解決が難しいものに関する「苦」については、仏陀はどんな指導をされていましたか?
【答え】
そのようなことは、自らの手で知恵を身に付けて解決しなければならない問題です。
そんな質問が出るということは、残念ながら「仏教とは何たるか」が分かっていないことになります。
今質問にあったような類の「苦」は、一般的にはイエス・キリストのような神に祈って、何とか良くしてもらえるように「神頼み」するような内容です。
尤も、神に祈ることで何とかなるかどうかは別問題ですが・・
仏陀は、因と縁のある人しか救えない
どんなに優れた人でも、例え仏陀といえども「因と縁のある人」しか救えないものです。
人には夫々生まれ持っている「因縁」があり、それによって積み上げられた「カルマ」を背負っています。
そして、人が持っている因縁には個人としての限度があり、それが個人の限界というものです。
ゆえに仏陀といえども、仏陀に因と縁のある人しか救う(苦を滅する)ことは出来ません。
実は、ありとあらゆる人の不幸を無くす等というのは、本人の学びを奪い取る「越権行為」に当たるので許されないのです。
だから仏教であらゆる者が救われると考えるのは、誤りです。
どんなことからでも救われるというのは、神に対して求めるようなことであって、本来の仏教からは外れていると言えます。
【質問】
渇愛(タンハー)、カルマ、因縁の違いとその働き方を教えてください。
【答え】
渇愛(タンハー)とは、カルマを積みあげる機械のようなものです
渇愛(タンハー)とは、無尽蔵にカルマを積み上げる機械のようなものです。
現実から際限なくエネルギーを貪りくらってカルマというゴミを堆積し続けます。
なぜなら人は、自分が持っている世界観(誤った認識)を維持するために、渇愛(タンハー)にエネルギーを注ぎ込み続けるからです。
ゆえに渇愛(タンハー)を滅すると、カルマの生産をストップすることができるのです。
カルマは、因と縁によって生じます・・火打石と同じです
カルマとは、過去の行為の結実です。
カルマは、波動、物、エネルギーであって、全て因と縁によって生じます。
因縁は、火打石と全く同じ働きをします。
二つの火打石をカチンと打ち合わせると火花が散ります。
この時の二つのかち合う石が因と縁で、飛び散った火花がカルマです。
因と縁を酸素と水素の例えでも説明できます
どんなに大量の酸素(火打石)が有って水(火花)になりたい(散らしたい)と思って暴れたとしても、
水素(別の火打石)が無い限り、水(火花)は絶対に生じません。
しかもカチンと打ち合って化学反応を起こさなければ、水はできません。
この場合は、酸素と水素が因と縁で、水が化学反応の結果であるカルマということになります。
つまり、どんなに因だけあっても対象物(縁)が無ければカルマは作られないことになります。
全てのカルマは因縁の化学反応によって生じるのです。
そして、その因と縁を生み出すのが渇愛(タンハー)ということになります。
受け入れがたい話をしますが、実はどんな事件もこの因縁によって生じているのです。
火打石同士(因縁)がかち合わなければ、どんなに事件(カルマ)を起こしたくとも起こせないものなのです。