【質問】
「神」が存在するためには、人の集団的同意が必要なことを学びました。
神様の中には神罰を下す神が存在して、そういう神を信仰する人々がいます。
何故、神罰を下す神が存在するのでしょうか?
そういう神を信仰する人々は、神に対してどういう集団的同意を持っているのですか?
【答え】
【個人主義が行き過ぎるとどうなるか】
色々なことが上手く循環している世の中では、真の意味での不平等が存在せず、本当は平等な世の中と言えます。
そういう世の中では、人々に貧富の差こそは有れども、社会から役割を与えられない人は存在しません。
つまり、全ての人に多かれ少なかれ「仕事」という社会的責任が与えられることになります。
そして、その社会的責任を果たすことによって、社会から経済的に支えられることになるのです。
ところが、個人主義が行き過ぎると、社会の中で切り捨てられる人が出てくるのです。
例えば、日本に働かせるための外国人(安い労働力)を沢山入れると、日本人の中に仕事にあぶれる人が出てくるようになります。
このように個人主義が行き過ぎると、私利私欲に走る人が沢山出現するようになり、公共の福祉などの社会の循環が上手く行かなくなって、社会の基盤が崩れていくことになります。
そうなると、やがて国の崩壊につながっていくことになります。
人間社会の規範に反する理不尽は元々は許容されざることなのですが、行き過ぎた個人主義の今の時代では、まかり通ってしまっています。
そして、必要以上に他人の財産を奪ったり、攻撃するなど、私物化して食い荒らすことが常態化しています。
国民が、国の得になることをしてこそ、回りまわって自分自身の得にもなるものなのですが、国民が反対に、他人や国家の財を食い荒らすことばかりしているような国家は結局長続きせず、その内に崩壊してしまうものです。
見方によっては、この国家の崩壊こそが「神罰」と言えるのかもしれません。
「人が社会のためにある」というのは、国家にとっては非常に重要なことなのです。
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【行き過ぎた個人主義社会の宗教】
社会における個人主義が行きすぎると、宗教は先鋭化するものです。
元々の宗教とは、自分が社会やみんなの為にあることを規範にしており、公共の福祉を担っていました。
昔は、宗教のお陰で自分自身を社会のために役立てることが出来たのです。
今や宗教どころか、国家までもが公共の福祉をさぼり始め、上から下まで人々が、自分たちの都合の良いように動き始めたので、
悲惨な結果として「社会からあぶれた人々」が出現しています。
そしてそういう人は、頼るべきものが無いので、先鋭化された宗教にも頼るようになってしまいます。
【神罰を下す神を信仰する、社会からあぶれた人の心情】
神罰を下す神を信仰している不遇な人は、自分の運命を呪い、良い目を見ている人の幸運をも呪います。
この不遇な人から見ると、幸運な人は皆、他者を虐げて成功しているように見えるのです。
言い換えれば、好んでそういう人ばかりを見てしまうのです。
そして、自分自身は虐げられている不運な側なのです。
こういう人は、神罰を下す神を信仰して、他者を虐げて成功している悪人に神罰が下ることを強く祈ります。
究極の時代がやって来ると、全ての悪人に神罰が下り、世の中から悪が一掃されて新しい時代がやって来る、というようなグレートリセット論等がそうです。
しかしこの状態は、神の威を借りて、成功者に対して暴言を吐くなどして、不運な自分の八つ当たりをしているに過ぎません。
このような人は、このままでは絶対に幸福にはなれません。
なぜなら、その人の信条においては、常に貧しくあらねば正義ではなくなるからです。
この場合の貧者と富者は、本人も気が付いていない全く同じタンハー(渇愛)を持っています。
それは、実は「他者を虐げたい」という渇愛です。
両者は、例え貧者と富者が入れ替わったとしても、夫々の役回りを同じように果たすことになるでしょう。
つまり両者は、同じ穴の狢ということになります。