カルマとは「善行」と「悪行」によって裁かれる「因果応報」のことではありません。
行動に対して結果が伴う、その結果のプラスとマイナスの差し引きによって運命が決まります。
例えば「ばね」があるとします。
社会における人々の意識が、ばねを伸ばすことを「善行」だと決定すれば、ばねを縮めることは自動的に「悪行」と決められてしまいます。
もし人が善行を続けようと思うならば、「ばね」をずっと伸ばし続けなければいけませんが、そんなことは果たして可能でしょうか?
ばねはいずれ伸びる限界が来れば、それ以上伸ばすことは出来なくなってしまいます。
そのため、自分自身がばねを伸ばし続けたいとするならば、逆にばねを縮めてくれる誰かが絶対に必要となります。
もし自分自身でばねを縮めたくないならば(悪行に手を染めたくないならば)、誰か別の人にその役割を押し付けなければなりません。
結果としてその人は善行を積み続けることができるでしょう。しかし、その善行の陰で人に悪行を押し付けたという、別のカルマを積むことになります。
こういうことは、世の中ではよくあることで、善行の陰に悪事が隠されていたり、悪事の陰に善行が隠れていることは結構あるのです。
ここから言えることは、極端な善悪は別としても、一般的に善人(善行)と悪人(悪行)は判別が難しい面があるということです。
人は、カルマをどのように積むのでしょうか?
悪行には負のカルマ?善行には正のカルマ?
ではその善行の陰に悪行が隠されていればどうなるのか?
一見悪行に見えても、誰かを救っている場合は?
愛する人に悪いことをさせないために、自ら進んで悪事に手を染める場合は本当に悪行なのか?
どうやって判断されるのでしょうか?
あらゆる人の行動には結果が伴います。しかし、その「結果」とは、人間社会によって線引きされた「善悪」によって裁かれた結果として、幸福や不幸がもたらされる、というものではないということです。
例えば、脱炭素のためにソーラーパネルを設置すると、確かに発電には二酸化炭素を排出しなくなります。
しかし、肝心の「ソーラーパネル」そのものを生産する過程で大量の二酸化炭素を排出することが知られています。そして何より、寿命を迎えたソーラーパネルを破棄する課程でも、異常なコスト、人的資源、二酸化炭素の排出を必要とします。
結果的に、「国内で自分たちが電気使う時」だけ、見せかけに脱炭素化しているに過ぎません。
パネルを生産・廃棄するために作られる二酸化炭素は誰に押しつけているでしょうか?
このように、あらゆる物事は多面的なのです。
たとえ善意で行った善行のように見えても、それは全体の事実の一側面、切り口の一面にしか過ぎません。
一元的な「善悪」にこだわっていると、全体を含めた(ホリスティックな)事実を理解できなくなってしまいます。
水素と酸素から水が作られるように、縁(同じカルマ)を持つ者同士 (:水素と酸素) が接触することで、結果(因果:例えば水)が生まれます。
同じように、「加害者」と「被害者」が同じ場に居合わせるために「事件」が起こります。
加害者は悪であり、被害者は善です。が、本当にそう判断していいものでしょうか?ご存じの通り、それはケースバイケースです。
即ち、カルマとは本来「原因と結果の法則」そのものであり、人を裁くために作られた教えではないのです。善悪の価値観に当てはめると近年の社会にとって都合がよかった、それだけの話なのです。
カルマの法則とは、単に様々な事象を含めた物理法則そのもののことを示しているのです。
物理法則は算術であり、善悪の垣根を越えて、ただ事実のみを集めることでプラスとマイナスの厳密な計算がなされなければ理解できません。
人間社会で作られる善悪の価値基準は、このカルマの計算を狂わせてしまいます。
水素と酸素が反応すれば水ができますが、ではこの水が出来たという事件の加害者はどちらなのでしょうか?判別できる人はいないでしょう。
同じように一つの事件が起きた時に、単純に被害者、加害者という概念だけでは全体像を理解できない可能性があります。加害者が実は社会の犠牲者であることもよくある話ですね。
学校でひどく虐げられ続けた子が、仕返しに同級生に暴力を振るうこともよく有ります。
このいじめられっ子は、加害者ですが、同時に被害者でもあるわけです。
カルマの法則を理解するには、「表面的な善悪の価値基準に捉われない広い視野」を身に着けることが必要となります。