チャネリング 仏教と瞑想

仏陀の時代の托鉢行 ②喜捨する側のカルマ取り

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仏陀の時代の托鉢行には、喜捨する側にとっても非常に深い意義があります。

『自分が相手に喜捨することによって、自分が如何に貧乏であるかを初めて認識することができるようになるのです』

この時代は、情報伝達の手段が現代のように発達していませんでした。一般人は読み・書き・計算すらもおぼつかず、自分の生活圏の外の情報を得る手段がほぼ皆無だったのです。

そのため、別の村や階級の人たちと自分たちの生活を比較することが大変難しく、自分自身の貧しさを自覚することすら困難だったのです。

修行僧に托鉢に来られて初めて、差し出せるまともな物が無いことに気が付いて、ようやく自分たちの貧しさを実感することになったのです。(これがカルマ取りになります)

気が付いて初めて、貧しさから何とか抜け出さなくてはならない・・・それにはどうすればいいのか・・・

そこからがスタートになります。

極貧の村の人々は、貧しいとは言ってもそれぞれ何か(食料、金品)を実は隠し持っており、そのわずかな財産を後生大事に守ることに執着しているため、

新しい仕事を生み出す等を通して、村に利益をもたらすことが出来なくなっているのです。

村人の夫々が我欲のために私利私欲に走ると村は発展しなくなるのです。

だから極貧の村になってしまうのです。

同じ村の中で比較的貧しくない人々も、喜捨によって貯えがなくなることで初めて、「どうにかしなくては・・・」という気になるのです。

「自分は本当は貧乏ではない、なぜならこんなに貯えをかくしもっているから(実は雀の涙ほどの貯え)」と錯覚してそれを後生大事に守るために人生を食い潰してしまうのです。

托鉢行には、村人に自分のタンハー(渇愛)とカルマを認識させて人生を好転させる、という修行が含まれているのです。

これこそ単なるお布施ではない仏陀の托鉢行の素晴らしさです。

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