「無我の境地」と伝わっていますが、正確には「無我」ではありません。正確な翻訳は「無個」になります。
つまり、自分が存在しないのでは無く、自分と自分以外の垣根が無くなるという意味なのです。
仏陀の滅後に当時の人が理解できずに取り違えてしまいました。
もし、無個であるならば、自分自身の地位や権力は実は全くの幻想だということになります。
当時の仏弟子にはバラモンが多く、彼らは支配階級で権力と地位を併せ持ち、知的にも優れた人たちでした。
そのようなバラモンが、身分制度が絶対的だった当時に自分たちの地位や身分を無いものにすることは到底できなかったのです。
自分の地位や身分を無くすくらいなら死んだほうがましだ、という心境にあったということです。
自分の身分や地位を捨てられず、しがみ付いている修行僧への戒めとして仏陀が指導したのが「無我の境地」だったのです。
ところが、どうしても身分を捨てきることのできないバラモンは、身分を捨てるくらいなら死んだほうがましだと感じたので、
「無我の境地」を「元々自分というものは存在しない・・・自分は存在してはいけないのだ」という風に飛躍してしまったのです。
この境地をサーリプッタ尊者は以下のように説明しています。
「自分というものは存在しない・・・自分は存在してはいけないのだ、となるのは、大変我の強い人間だ。
彼らは、自分自身の個を無くすのが本当は怖いのだ。
自分が存在しなくなると、この世が無くなると思っている。
つまり、自分と他人の垣根を越えて滅私奉公するのが嫌なのだ。
滅私するくらいなら死んだほうがまし、と思うので自分自身を無くす方向に行ってしまうのだ。
これは、大変自己中心的なタイプの人間で、大変傲慢である。
地位が高くて発言力のある人間にはこういうタイプが多いのだ。
このようなバラモンが、偉そうに無我の境地をスードラ(最も下層階級)に説くのは誠に滑稽で傲慢なことである。
自分を無くす行自体は、それも修行の内だが、それは自分自身だけでする行である。
自分を無くす行を他人に強要するようになるとそれは傲慢以外の何物でもなく、自分が悟っていないことを露呈してしまう。」