食べたい!寝たい!儲かりたい!
~~が欲しい!○○したい!!
欲、欲求。
~したい!何かを求める感情。
生物には、皆等しく「欲」があります。欲を持たない生物はいません。
生物が生きるためは、必要なものを常に取捨選択し、栄養となる食糧を摂取し続ける必要があるため、「欲」は必要なものです。
欲は植物にも、単細胞生物にさえ備わっている感情です。
植物は水を求めて根を伸ばし、単細胞生物もまたエネルギー源となる獲物を求めてさまよいます。
しかし、「欲は悪いものである」という価値観を持つ人もいます。
生命にとって絶対不可欠の「欲」。
何故この欲が悪いものとされるのでしょうか?
「欲は苦しみを作り出すものである」と古来から良く言われます。
しかし、欲を持つにせよ持たないにしろ人間は、いや、生物である限りは「欲」そのものから逃れることはできません。
仏教の世界でも言われることがあります。欲を持たなければ苦しみを脱する。それは本当に事実でしょうか?
例えば、「腹が減った・・・何か食べたい!」という欲があるとします。
この「食欲」を断つことで、人の食べ物を強奪しようとする行為を防げるとした、それは結果的に平和に貢献することになるでしょう。
しかし、もしも「完全に」食欲を絶ってしまえばどうなるでしょうか?
空腹を感じなくなるため、自分は食物がまったく必要なくなります。そのため、食べ物を必要としている他の人がその食料を貰うことになります。
自分は最終的に餓えて死に、食料を貰った他人が生き残ることになります。
自分が食べるはずだった食料を与えてくれるのですから、その他人からしてみれば自分は「良い人」でしょう。しかし、その良い人である自分は生き残らず、その分、他人が生き続けることになります。最終的に「欲を持つ者が生き延びます」。
自然界では、「正しい欲を発揮する者」が生き残ります。
欲を捨て去った結果として、必要な栄養さえ得られなくなった生物は餓死することになります。
欲を持たざる者は淘汰されてしまうのです。
欲を持たない方が正しいこともある
欲は正しく発揮されれば生きる為の大いなる力となりますが、逆に過った強い欲を持っていると、他者を害し自分を害し、社会をも害するようになってしまいます。
人類全体にとって、社会を害する欲は忌避すべき感情です。
例えば犯罪を犯したいという欲、人を殺したい、財布を盗みたい、暴力で支配したいなど、健全な社会を築き維持する害悪となる欲を持つ人がいます。これらの欲を彼らが存分に発揮してしまうようならば、社会は当然、健全な営みを維持できません。
このような欲を持ってもらっては困るため、このような欲は悪いものであり、安寧を脅かすものである。という認識を社会で共有することになります。
過った欲を見極めることは難しい。
結果的に、過った欲は唾棄されるべき感情なのですが、では何が誤った欲なのでしょう?
過った欲であるかどうかを見極めることは、そう簡単ではありません。
欲とは、ただ~したいという感情です。ただそれだけのものです。
その欲を満たそうとして行動した結果、その欲が善となるか悪となるかはその時の状況次第です。
人を殴りたい!という欲も、もしも平和に暮らしている一般人に対して向ければただの暴行ですが、これが自分の家族を殺すために襲ってきた暴漢に対して向けられたものであれば、これは家族を守るために善を働いていることになります。
食べ物を食べたい!という食欲も、他人が飢えて食べたがっている食料を奪ってしまうならただの強盗ですが、もしも自分が精いっぱい働いて社会貢献をしている労働者なら、自分がしっかりと食べて健康を維持しなければ、職場の同僚や家族、社会全体にとって害となります。
大統領を殺せば国家転覆を企む極悪犯ですが、もしも殺した相手が核ミサイルのスイッチを押して世界を破滅させようとしている狂人ならば、それは「世界を救った英雄」になります。
欲を発揮することが善となるか、悪となるかはケースバイケースです。
ただ、どのようなケースで欲を発揮することが悪となるのか?
これを見極めることが最も難しいのです。
欲の是非は支配者の都合で決まる
支配者は自分が支配している政権を政治と支配によって盤石なものにしようとします。
政権を安定させ、平和を維持するためには、自分が決めた法律やルールを破ってもらっては困ります。
また、自分以外の強い支配欲を持った人間が立ち上がり、政権転覆、下克上を企むような人間には台頭してほしくありません。
支配者は自分達こそが今の地位を手放さずに安楽に過ごしたいという欲があります。その欲を満たすためには、他人に欲を自由に発揮してもらっては困るのです。
しかし、支配者は民衆に面と向かって「我々が支配者するために不都合な欲を持つな!」とは言えません。
何が政権にとって都合の悪い行為なのかをみだりに晒すことは、自分達の強欲な部分や弱点を曝け出すことに等しい行為です。
ですから、彼らは「神」にその意を代弁させることで、「欲を持つと天罰が下る!」と言ったり、「欲を持つことは悪いこと!ただ神の意に従うことのみが正しい」、「欲を捨てることこそが唯一死後に救われる行為だ!」と豪語するわけです。
これらの行為は、有能な支配者が台頭することで平和と豊穣が維持できる限りは民衆にとっても有益です。そのため、支配者がおかしな政策を執り行わない限りは、正しい教えとして社会に認められるでしょう。
基本的には、「法」を守ることを意識していれば平和な社会を謳歌できるということです。しかし、この平和な社会はひとえに有能な支配者あってこその賜物なのです。
もしも支配者がおかしな政策を始めて民衆を傷つけ始めたならば、このような支配者が勝手に決めた法を守る意義は失われます。
民を傷つける愚かな支配者を討ち取る欲を持ち、強い我欲を持つ他の権力者をねじ伏せる欲を持ち、平和な社会を築こうと尽力する欲すら併せ持つ者。そのようなリーダーが次世代の支配者として君臨することになります。
古今東西問わず、歴史上では必ずこのような支配・被支配の形が作られています。
結局、「欲を持たず、役割を果たせ」という法は、政権を維持したい支配者の勝手な都合、または平和を享受したいという民衆の勝手な都合なのです。
しかし、それぞれ互いに利益を享受する関係にあるからこそ、法は正しいと認められ、法を侵す欲を持つものは「安寧を脅かす悪」であると決められているわけです。
しかし、この欲の良し悪しを見極めることは難しく、また余計な欲を民衆に持ってもらうと、支配者としては困ります。そのため、「欲を持たないことは良いことだ」と民衆に教えを説き、支配者の「正しい教え」の意のままに動く民衆を支配者は欲します。だからこそ、「欲は悪いもの」と教わるのです。
どう思いますか?
果たして欲を悪いものとして認識することが、知恵に結び付くでしょうか??
何か素晴らしい能力や見識が身に付くことがあるでしょうか???
どう解釈しどう行動するかは、あなた次第です。
欲に対する認識は相対速度で変わる
欲とはただの~したい!という感情です。
即ち、「欲とは何かに向かって進もうとするベクトル」なのです。
「相対速度」という概念はご存じでしょうか?高校?中学の物理で習った記憶があるかもしれません。
例えば、みんなが掃除している時に自分も掃除を手伝っていれば、それは特に欲がある行為とは見做されません。
皆が昼食を食べている時に自分も昼食を摂っていれば、特に欲があるとは注意されないでしょう。
しかし、皆が掃除をしている時に自分が昼食を摂っていたらどうでしょう?
「サボっている奴がいる!」「お前だけずるい!」
こういう野次が飛んできそうですね。
不思議ですよね。昼食を摂っているという所作に全く違いは無いのに。
そう、これが「欲の相対速度」です。
他人から見て、自分の行動が異なる。発揮している欲が違う。
自分から見て、他人の行動が異なる。発揮している欲が異なる。
このような欲の相対的速度が感じられるときに、人は初めて他人の欲を認識し、攻め立てるようになります。
特に、利害関係が絡む時ほどこの非難は強くなります。
そもそも、他人の欲を非難する理由は、自分が欲を持っているからです。
自分に合わせろ!と強要することは欲です。
他人に合わせようという意図もまた欲です。
掃除しようとすることも欲、昼食を摂ろうとすることも欲です。
では、何もしなければ良いのでしょうか?
何もしたくない!というのも我欲ですね。
人間は生がある限り欲から逃れることはできません。また、例え自分が意識を喪失したとしても、身体が生命を維持するための様々な「無意識下にある欲」から逃れることはできないのです。
欲が良いものか悪いものかを議論される理由は、他者との利害関係があるためです。
他人がいなければ欲そのものに良し悪しは存在しません。
むしろ、自分を幸福にするために欲は必要不可欠であり、生命を養ってくれるための「良い感情」でしょう。
欲に苦しめられる理由
人間は欲が満たされなければ苦痛を生じます。欲を満たすことは生命活動に不可欠なものだと認識されるためです。
しかし、人間の認知は様々な点で不完全であり、実現不可能な欲を持ったり、狭い範囲ばかりを意識するために俯瞰的に物事を捉えることができません。そのため、本来は必要のない余計な欲に囚われてしまいます。
そのため、自分を害するような欲は、自ら意識して絶たなければなりません。
何が利となる欲で、何が害となる欲なのか?それを知るためには、物事をただしく捉える「観察眼」、そして「思考力」を併せた「智慧」が必要です。
瞑想は、その智慧を養うために行うものです。
「なあんだ、こういうことだったのか」
得心の内には、もはや苦痛はありません。掻き消えてしまいます。
その智慧を身に付ける思考法や洞察テクニック、これらには法則や理論がしっかりと残されていますが、これらを理解することそのものが最もハードルが高いポイントかもしれません。