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悟りの境地?無の境地とは【自分を無くす?】無我とは

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チャネリングで知った、実は誤りだった?無我の境地の解釈論

仏教や禅で目指すゴールのひとつとして、悟りの境地のひとつの形である、無の境地の獲得というものがあります。

自分の心を無にして苦痛の原因そのものである物質世界の因果からの脱却を目指す、というものです。

これは端的に言えば、「自分の存在を無くす」ことにより、生の苦痛から逃れるのと同義です。

日本ではあまりなじみが薄い教えかもしれません。国内で現在主流となっている大乗仏教とは異なり、諸外国の原始仏教系の流派などで説かれることが多い教えです。

もう少し具体的に解説すると、以下のようになっております。

自分というものは目や耳、肌などを通してできる感覚の集合体であり、突き詰めれば細胞の集合体、分子の集合でしかありません。
このように、自分自身を細かく分解していけば何も残らない。
過去や未来というものも脳細胞によって刻まれているただの情報や感覚に過ぎない。
すなわち、自分自身が存在している、という認識は、実はただの幻、幻想なのです。

自分というものは存在しません。すなわち、自分の心から湧き上がってくる怒りや嫉妬、喪失感など・・・これらの感情はすべて、自分というものが無ければ湧き上がってこないものです。

自分は存在しないのだと理解しなさい。そうすれば、あなたはこの世のあらゆる苦痛から解放されるでしょう。


なんだか違和感を感じるかもしれませんが、現代科学や物理学の表面的常識と照らし合わせると、一見すればこの教えは正しいように見えます。

・・・しかし、これは正しくもありますが、実際のところ誤っているのです。


クルマ、鉛筆、ケーキ、電話、犬、猫・・・ これらの単語を、我々は物質だと思って口に出していますが、実際にはこれらの単語そのものが物質自体を指し示しているわけではありません。

これらの言葉は特定のものを指し示す「概念」です。

例えば目の前に鉛筆があります。 この鉛筆をどんどん分解していきましょう。バラバラになって、木片の切れ端と炭だけが残されました。

これではもはや鉛筆とは呼べません。

しかし、このバラバラにされた木片の切れ端や炭が、果たして「鉛筆の本質」なのでしょうか?


目の前に象がいるとします。
大きな耳があり、足がある。長い鼻があります。身体は細胞とたんぱく質でできています。

この象を分解していけば、大きな耳や鼻、目、口、手足や胴体などが残ります。

しかし、それでは象の本質は、大きな耳ですか?足でしょうか?長い鼻は象と呼べるのでしょうか?

それとも細胞そのものが象なのでしょうか??  


物事を細かく分解していけば本質が見えてきます。

科学の世界では、物質の構成や構造を正しく理解するために、様々な物事を小分けにして小さく分解していくことは、確かに、物事の本質を理解する、真理を確かめるために必要であることは事実です。

しかし、実のところどんなに物事を細分化したところで、その物事の全体像を正しく理解することはできません。

そこから得られた真理は、あくまでも全体の事実の一側面でしかないのです。


何故なら、分子のみを切り出す化学では、あくまでも全体の切れ端の一部しか見渡さないのですから。

全体を細分化していくと、その全体を構成している真理の一部分が見えてくるようになります。すると、今までには分からなかった物事の事実が視えきます。

この観察方式は、俗にニュートン物理学的思考法と呼ばれます。これはあくまでも化学的分析という一点において物質組成を突き詰めるためのものであり、ここにはそれ以降のネットワーク論や量子力学、それこそ分子「構造」学、ベクトルや重力斥力は考慮されていません。

物事というのは「概念」、即ちそれらの部分部分を構成している「ネットワーク」によって作られているため、その原材料をかき集めたところで、そのもの自体にはならないのです。

脳の記憶やコンピューターメモリの記録も、このネットワークを作ることで成り立っています。我々の身体も、心臓だけでは自分とは言えませんし、脳だけ残っていても意識を持っているひとりの人間としては存在できません。

実のところ、脳細胞自身がすべての記憶を持っているわけでさえありません。

無我の境地の「自分は存在しない」という解釈は部分的には正しいでしょうが、実は誤りなのです


これらの情報はすべてチャネリングで教えていただいたものなのですが、数奇なことに、YOUTUBEでほぼ同様の解説してくださっている先生がいらっしゃいました。(※長い動画なので注意)



我の存在しない世界とは?(ヒント)

自分が無であるという解釈が誤っているとしたならば、それでは、仏陀の伝えたかった無我の境地とはいったい何だったのでしょうか?

無我で語られている「自分」とはいったいなんでしょうか?



ネットワーク論とフィールド理論に照らし合わせて考えてみれば、その真実の一端が徐々に見えてきます。

人間を含めた「生物」は、「これは自分」「あれは他人」自己と非自己の認識を持つことよって生理学的な生態である自分自身を維持し、生かしています。

「自分が生きるために自分以外のものを利用します。」

この自己と非自己の認識は、細胞レベルから行われているものです。

単細胞生物でさえ、「自分」という認識を持っているのです。

この「自己の境界を認識する」という行為が、生物が細胞レベルから持っている原始的本能なのです。ゆえに、人間はこの自己を維持するという点において様々な本能や感情、苦痛を生じることとなるのです。

自分の意識を静止し、苦痛の発露を抑える。たしかに、苦痛の忘却は精神的な疲弊を取り除くのに役立ちます。

しかし、物質は人間の精神などよりも遥かに強固で、確固とした存在です。自分の認識をいくら歪めたところで物質は自分の都合の良いように存在を捻じ曲げてはくれません。心を無にしたとしても、物理的な現実が変わることは絶対にないのです。

ある意味、物質の世界はこの世を形作っている、神そのものです。

極論すれば人間の精神でさえ、物質によって造られているのですから。


認知を歪めて苦痛を解消するという方法は、怪我をしたときに痛み止めの薬を飲んで凌ぐようなものとも言えます。

痛み止めは、確かに有効な場面は数多くあります。しかし、痛みを止めても実在する問題が解決されることはありません。ただ問題を一時的に先延ばしにしているだけです。



本来、瞑想によって得られていた悟りとはなんなのでしょう?

自分の意識を喪失することは、その時間死んでいるのと同じです。

これは無為の極致と同じ、人生は無意味であるという思え方です。

死ねば楽になる、というのも考え方のひとつと言えるでしょうが、仏陀はそのようなニヒリズムを伝えたかったわけではありません。

仏道を極めようとする者が、ニヒリズムに悩まされる必要はもうないのです。

そのような考えは、真に「我を無くす」ことができれば掻き消えてしまうことでしょう。


苦痛の原因を解決するためには一体何を「 無 」にしなければならないのでしょうか? 実はそこに大きなヒントがあるのです。  

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