【質問】
仏教における托鉢の修行とは、人々の貪りの心を手放させる為のもので、
特に最も貧しい村に行って、人々に食べ物を喜捨させることにより、最も貧しい村の住人にならざるを得なかった強い貪りの心(タンハー)を手放させることに効果がある、という理解で合っているでしょうか?
【答え】
仏陀の時代における托鉢行は、仏陀の弟子たちに当時最も身分が高かったバラモンが多かったことと無関係ではありません。
バラモンは当時の最高権力者なので、彼らには身分の優劣による傲慢さのカルマが溜まっていたのです。
托鉢行とは、それを解くためのバラモンにとっての重要な修行でもあったのです。
バラモン階級の人々は当時最高権力者だったので、民衆から我が物顔で税を徴収していました。
そして身分の低い庶民を人としては見なしていなかったのです。
庶民から奪った税をさも当たり前のような顔をして懐に入れ、その一部を庶民に施していたのです。
托鉢行では、その身分の高いバラモンが頭を下げて庶民にお願いに行くことであり、それ自体に意味があるのです。
身分制度が絶対だった時代に、高い身分の者が賤民に頭を下げる・・・
これこそ仏陀が弟子たち(バラモンたち)に課したすさまじい苦行と言えます。
托鉢行とは、肉体的な苦痛の全く無い、精神的な苦行だったのです。
当時仏教は絶大な権勢を誇っていたので、それにあやかって権力を欲しいままにしたいと思って仏弟子になったバラモンにとっては、
耐えがたい修行であり、この托鉢行は仏弟子を続けることが出来るか否かの試練でもあったのです。
耐え切れずに放りだすバラモンも多くいました。
さらに、托鉢行にはもっと深い意味もありました。
この修行によって修行僧は、日頃自分がどういう想念を庶民に対して出しているのかが分かるのです。
もし、自分が庶民から喜捨を受け取った時に、
いかにもみすぼらしいもので、それに対して怒りの感情が湧いてくるなら、それこそ自分が庶民に対して与えていたものであり、抱いていた感情なのです。
庶民に対して常日頃みすぼらしさを感じ、心の底では見下していたので、そういう庶民からみすぼらしい物を与えられたことに対して怒りが湧いてきたのです。
庶民から受け取った喜捨に対して、貧しいにもかかわらず心のこもった有り難い喜捨だと感じるなら、
その修行僧は、庶民に対して心を込めて施しをしていたのでしょう。
修行僧は、いつも自分が庶民に対して与えていた感情を受け取ることになるのです。
つまりカルマ取りをすることになります。
当時托鉢行の修業僧は、庶民と言葉を交わしてはいけないことにもなっていました。
言葉を交わしてはいけなかった理由は、喜捨されたものに対する怒りを相手に向けてはいけないからなのです。
「自分が世にまき散らしたカルマを回収しなさい。」というのが仏陀の教えです。